富岡製糸場は、2014年6月21日カタールのドーハの会議の結果、ユネスコにおいて正式に世界遺産として登録することが決定いたしました。
その中で「建物群は和洋折衷という日本特有の産業建築様式の出現を示している」と評価しています。これも横須賀製鉄所から派遣されたエドモン・オーギュスト・バステイアンの設計になるもので、既に横須賀製鉄所において取り入れられた建築デザインと同様の木骨煉瓦造により設計された、建物群が建設され当時のままの姿で保存されているもので、素晴らしい景観形成を示しています。
また、製糸場の心臓部に当たる繰糸場については、日本で初めてのトラス構造を採用して工場内のフローワーには柱を用いず、有効に床を利用できるよう設計するとともに、当時は電気がない時代であったので、窓を大きくとり自然採光にも気を配りガラス窓としました。しかし、日本にはガラスがありませんので、横須賀製鉄所を通して輸入しました。
こうして、いわば産業革命とも言われるような技術革新による良質な絹製品を生み出す装置と、それを支える施設群が新たに誕生しました。そして、明治新政府の殖産興業に大きく貢献しました。その後この官営工場も民間に払い下げられることになり、その経過の中には「原合名会社」の名称が見られますが、この会社は横浜の原富太郎(三渓)によるもので、この会社を経営することにより「三溪園」が生まれる基礎ができたものと思われます。
また、生糸の製造、輸出により富岡と横浜との間でお金の流れが活性化することになり、地方銀行である横浜銀行も群馬県内に3箇所の支店を置くことになりました。そして、初代の横浜銀行の頭取には原富太郎(三渓)が就任しています。
(元横須賀市助役 井上吉隆)