1875年(明治8)ヴェルニーは横須賀製鉄所の職を退任することとなりました。ヴェルニーは、横須賀製鉄所の所長に就任してから多くの技術者を養成し、日本人だけの手による大型船の建造・修理を十分に実施できる体制が確立し、また、造船以外の産業の機械器具生産までが横須賀製鉄所で可能になりました。そこで、明治新政府はヴェルニーの退任を求めました。
明治新政府の関係者の中には、ヴェルニーがあまりの高給(年俸1万ドル)なので、これ以上の雇用は無理だとする考えもあったとする声もあったが、直接その声に動かされたわけではなくヴェルニーは潔く職を辞することになりました。そして、横須賀製鉄所の創業以来の状況を明治新政府に対して、第1款建築、第2款機械及び器具、第3款人事、第4款学校、第5款製造及び修理、第6款経費の以上6項目に渡り報告しています。この報告書の第3款人事によりますと、職工だけでも1,300人を超える工場が建設され稼働していたと記されています。
こうした大規模な工場が明治初期に日本中の何処に所在したでしょうか。そして、横須賀製鉄所では造船や船の修理だけではなく、富岡製糸場、愛知紡績所、生野銀山などで使用した新しい産業用機械の製造や、横須賀製鉄所で製造し得ない機械器具の輸入なども手がけ、産業革命の発祥の地であるイギリスでは軽工業から近代的な重工業へと移行することによって産業の近代化が図られ、産業革命が達成されたものですが、我が国においては手作業によって実施されていた製糸や鉱石の採掘が一気に近代的な産業用の機械への転換となり殖産興業の実現こそが日本の産業革命であり、その中枢を担ったものが横須賀製鉄所であります。
明治新政府が重点目標に掲げた殖産興業の実現に、多くの役割を果たした横須賀製鉄所が何故「日本史」の教科書の中に取り上げられないのでしょうか。また、本年6月「富岡製糸場」が世界文化遺産に登録されることになりました。その登録のルーツが横須賀製鉄所にあると考えられますので、その源を大切に横須賀に活かし再生する必要があるのでしょう。
(元横須賀市助役 井上吉隆)