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横須賀製鉄所物語

小栗上野介と勝海舟

横須賀製鉄所物語<1>

在日米海軍基地が第2次世界大戦までは、横須賀鎮守府・横須賀海軍工廠であったことを知る人はまだ多数居られると思います。それ以前はどうであったかと尋ねれば、江戸幕府の末期の黒船来航まで遡ることとなります。勝海舟の『海舟日記』によれば、江戸城において将軍、閣老以下が居並ぶ中で海軍についての議論が行われた際に、勝海舟は先進諸国並みの海軍を創設するには500年はかかる、従って軍艦は先進国から購入し、兵の育成に力を注ぐべきであると述べたと記しています。

一方、日米修好通商条約の批准書交換のため、日本使節団として渡米した小栗上野介は、造船所を視察し近代的な工場建設の必要性を認識することになり、勘定奉行に就任したのを機会にフランスの技術援助により、製鉄所(造船所)建設に取り組むことになりました。

この製鉄所建設には、幕府の内部からも勝海舟をはじめ反対するものが有り「危機的な幕府の財政状況の中で建設資金をいかに賄うのか」「製鉄所を建設する資金があるのならば、反幕府勢力の鎮圧に使うべきではないか」などの意見が出され、薩摩・長州その他の藩からも反対の火の手が上がる一方、海外ではイギリスなどから「そのような大工場が日本で建設できるはずがない」との反対の声が上がりました。

しかし、徳川幕府は建設に着手し明治維新後の1871年(明治4年)に国内最古のドライドックが完成し、日本の近代産業の萌芽を迎えました。そして、横須賀製鉄所鍬入れ式から91年目の1956年(昭和31年)には造船量(総トン数)がイギリスを抜いて、日本が世界第1位になりました。この横須賀製鉄所は栗本鋤雲(くりもと・じょうん)によれば東洋で最大のものであり、前代未聞の規模を持つ工場であった。もし日本が船を買い続けていたら産業の近代化も、殖産興業も進められず近代日本への道程ははるかに遅延していたものと思われます。

(元横須賀市助役 井上吉隆)