> 新よこすか風土記 > 横須賀製鉄所物語 > 横須賀製鉄所物語<25>

Story新よこすか風土記

横須賀製鉄所物語

観音埼灯台の建設その3

横須賀製鉄所物語<25>

「江戸条約」の中に盛り込まれた灯台の建設は、第11条に「日本政府は外国貿易の為の開きたる各港最寄船船の出入安全の為燈明臺、浮木、瀬印木等を備ふへし」と定められました。そして、建設すべき灯台として、観音埼・野島埼(南房総市)・樫野埼(和歌山県串本町)・神子元島(下田市)・剣埼(三浦市)・伊王島(長崎市)・佐多岬(鹿児島県)・潮岬(和歌山県串本町)の全国で8箇所の建設が求められました。

そして、横須賀製鉄所では明治新政府の求めに応じてその第一号として「観音埼灯台」に着手し、1869年(明治2年)に完成し、その後「野島埼」、更には条約外の「城ヶ島灯台」・「品川灯台」をも建設しました。横須賀鎮守府が発行した『横須賀造船史』の明治三年紀によると、灯台の機械購入費を含めた建設費について、観音埼灯台は6,337両1分90文、野島埼灯台は17,715両、品川灯台は1,544両、城ヶ島灯台は機械購入費洋貨1,426ドル20セント、造営費237両と記されています。

このように灯台の建設は、尊皇攘夷運動から生まれました。しかし、不思議なことにこの尊皇攘夷運動を過激に唱えていた長州藩では、駐日イギリス領事やイギリスの商社の協力を得て、イギリスに密航しロンドン大学に留学します。その人達は「長州ファイブ」と呼ばれる井上聞多(馨)・遠藤謹助・山尾庸三・伊藤俊輔(博文)・野村弥吉(井上勝)の5人の長州藩士です。この5人は戊辰戦争後に明治新政府が発足すると、いずれも政府要人として活躍することになります。

この5人は、日本では鎖国のため徳川幕府の許可がなければ海外渡航が禁じられていたため密航することになります。1863年(文久3年)6月に横浜を出港しイギリスに向かいました。イギリスに滞在し下関戦争の情報が入ると、井上聞多と伊藤俊輔は1864年(元治元年)4月に急遽帰国します。他の3人はそのままイギリスに滞在し、1865年密航した薩摩遣英使節団のメンバーと交流したりしながら留学を続けます。

こうしたことから尊皇攘夷とはなんであったのでしょうか。攘夷を叫びながら密航までして外国への留学を実施する。私達が教科書で学んだ尊皇攘夷とは余りにもかけ離れた現実に戸惑いを感じざるを得ないところです。

(元横須賀市助役 井上吉隆)