横須賀製鉄所、横須賀海軍工厰、在日米海軍基地と時代の流れの中で施設が整備され、その利用形態も変わる中、横須賀のまちも変化を続けました。しかし、在日米海軍基地を見る場合どうしても現在の目線で見てしまいます。製鉄所建設以前の横須賀に視線を合わせるには市立博物館の『横須賀市内近代遺産総合専門調査報告書』によって当時の横須賀を知る事が出来ます。
「横須賀村は、丘陵が断崖となって海につながり、居住は不適な土地であった。住民は少なく、主として漁業を営んでいた。しかし、徳川幕府がフランスに製鉄所建設を依頼した時、その港湾が好適とされ、慶応元年、工事が開始された。(略)この時期の市街地の中心は、汐留、本町であった。製鉄業務に必須な水道や製鉄所警備のための警察組織の整備、また郵便局など近代都市的な設備の設置は早かった」と記されています。
そして同報告書によりますと横須賀製鉄所建設以前の横須賀村について「明治以前の三浦半島は浦賀、三崎を中心に繁栄しており、横須賀はその経由地にすぎなかった。丘陵の尾根線が主要路として形成されていたものの道幅二間ほどであったという。特に、陸路で横浜方面に至るには十三峠(塚山)の難所を越えねばならず、徒歩でもこんなほどであった。輸送は主に海上輸送に頼った。江戸時代の末期より、汐留から榎戸経由で野島浦(横浜市金沢区野島町)への渡船が不定期に往来していた。この渡船場は金沢湊と名付けられた」と記され、更に横須賀村半島部の住居について「泊に12戸、楠ガ浦に34戸の集落が形成され、そのほか民家が散在し、合わせて96戸という小村であった。村民は主に漁業および農業によって生計を立てていた。(壮者は概ね常に銚子、九十九里浜等の魚家に傭われ生計の一助と為す)とあるように、村民の生活は楽ではなかったようである。(略)また、深田村には18戸、中里村に19戸、不入斗村に37戸、佐野村に33戸あり、主に農業を営んでいた。公郷村には250戸あり、主に農業および漁業に携わっていた」と記されている。
以上の報告書から分かるように横須賀は陸の孤島の中に小さな集落が集積したまちでした。
(元横須賀市助役 井上吉隆)