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横須賀製鉄所物語

製鉄所への陸路

横須賀製鉄所物語<27>

横須賀製鉄所建設以前の三浦半島では、浦賀や三崎がまちとして開かれ繁栄し、横須賀はその道筋の小さな集落の集まる存在でした。その横須賀の江戸や横浜からの交通アクセスはどのようであったのでしょうか。『新横須賀市市史』通史・近世や横須賀中央文化振興懇話会発行の『町の発展史』にほぼ同様の記述がされています。『町の発展史』によりますと「江戸から三浦半島に入る陸路は、東京湾沿いの浦賀道(保土ヶ谷宿-田浦十三峠-逸見-汐入-大津-浦賀)、半島内部の鎌倉道(藤沢宿-鎌倉-小坪-木古庭-衣笠-大津-浦賀)が主要道であったが山越えで上り下り坂の道であった」と記されています。

この陸路の江戸・横浜からの横須賀製鉄所へのアクセスは、ヴェルニーが任務を終え帰国する1876年(明治9年)までには改善されることはありませんでした。鉄道から見てみますとJR横須賀線は、軍からの要請により東海道線の大船駅から分岐して横須賀駅まで建設され、1889年(明治22年)6月16日の開業でした。京浜急行は品川浦賀間が1933年(昭和8年)の開業で何れもヴェルニーの在任中には利用できるものではありませんでした。

道路については、現在の国道16号の追浜から船越への「浦郷隧道」が1925年(大正14年)の開通なので、陸路での横須賀製鉄所へのアクセスは浦賀道に頼ることになります。しかし、ヴェルニーが帰国する1876年(明治9年)には、横須賀製鉄所も従業員が千数百人にも及ぶ日本最大の大工塲に発展し、明治新政府の殖産興業の模範工場であり、日本産業革命の礎を築く工場の横須賀製鉄所に必要な物資の輸送は道幅も狭く、急な山坂の陸路ではとても望み得ず、海上交通に依存せざるを得なかったのです。

(元横須賀市助役 井上吉隆)