横須賀製鉄所(造船所)は、フランスの協力により日本における近代的な造船業の先駆けとしてスタートしました。それまで造船は徳川幕府の大型船建造が禁止されていましたので、北前船のような国内を航行する船の建造が中心でした。
そこで、先進諸外国のような大型船を建造するには、造船の一から学ばなければなりませんでした。『横須賀海軍船廠史』慶応元年紀によりますと徳川幕府は、幕府とフランスとの間で作成された「横須賀製鉄所設立原案」の第5節内国官吏組織事項の中にフランス海軍の校則により学校を設置することが明記されています。その学校(黌舎)の2期生(明治6年 卒業)恒川柳作は優れた造船技術を身につけました。そして、現在の在日米海軍横須賀基地内に所在する2号ドックは、フランス人技術者により設計監理されて建設されたものではなく、恒川柳作により設計監理され建設されたものです。
恒川柳作によるドックの建設は横須賀だけでなく、1894年(明治27年)には横浜船渠株式会社からの依頼を受けて、1号ドックから3号ドックまでの建設事業の実施に当たりました。そのドックが横浜市内MM21地区内にあるドックで、最初に建設されたのが2号ドックで1895年(明治28年)1月に着工し、1869年(明治29年)12月に完成しました。横須賀製鉄所1号ドック完成から25年後のことでした。次に建設されたのが1号ドックで1898年(明治31年)に完成しました。MM21の開発に当たっては1号ドックには帆船日本丸が展示され、2号ドックは1993年(平成5)ランドマークタワーの開業とともに、ドックをそのまま保存し、ドックヤードガーデンとしてイベントスペースの利用が図られ、多くの市民や観光客を集めています。
これらのドライドックを建設した恒川柳作は、横須賀・浦賀・横浜の神奈川県内のドックだけではなく、日本の旧鎮守府が所在した呉・佐世保・舞鶴のドライドックの建設にも携わりました。このようにして、横須賀製鉄所で教育を受けた造船技師によって建設されたドックは日本遺産として認定されました。
機会を見てそれぞれのドックを見学することも楽しい散策となることでしょう。
※ドライドック…船舶の製造修理などに際して用いられる設備、船渠(せんきょ)、乾船渠
とも呼ばれる。通常、単に「ドック」と言えば、この「乾ドック」を指す。
(元横須賀市助役 井上吉隆)