横須賀製鉄所へのアクセスの中心は、陸路よりも海上交通が中心に行われていました。しかし、この海上交通について博物館の『横須賀市内近代遺産総合専門調査報告書』によれば、「当時(明治以前)箱崎沖は難所であったため、公郷名主永島庄兵衛が私財を投じて掘割を開削し、安政元年に完成した、全長375m 、海底幅10.8m 深さ3.6mであった。
この掘割は、現在埋め立てられている」と記され、海上交通安全のためこうした措置がとられました。そして、現在は大変人気の高い「軍港めぐり」で現在のイオン前(旧ダイエー)から出港し横須賀港をめぐり長浦港に進入し「新掘割」を通過して帰港します。この新掘割が永嶋氏の建設した掘割を埋め立てた後に建設されたものです。永嶋氏の掘割は新掘割よりも東側の東京湾に近い位置にありました。
この掘割は当時としては、海上交通のために大変重要な施設となっていました。そして、この掘割について赤堀直忠氏は『横須賀木土史の中の二』において「横須賀湾と長浦灣との間にある半島を箱崎半島と呼ぶ。この半島の基部(吾妻山の西南)両湾を通ずる掘割がある。この掘割は新掘割と呼ばれるもので、明治17年船越に水雷營が設置されるやこれとの便をはかるために長浦湾と横須賀湾とを通ぜんとして海軍省が開鑿したものである」と記しています。この掘割は軍港クルーズで通過するときに先人たちの偉業に深い感銘を受けるものです。
さらに同書において「この掘割が新掘割と呼ばれるのに対して吾妻山の東北部にさらに一掘割が存したものであるが現在は埋められている。箱崎半島の沖は風浪が荒らく昔時は之を通る船舶がしばしば危難に遭ったので三浦郡公郷村名主永嶋庄兵衛が自費を以つて半島を掘割り以て海上交通の便をはかったものである」としています。そして、工事について着工の時期は不明であるが、完成したのは1854年(安政元)10月で役人の見分を受けたと記しています。工事に要した費用は850両余りとされています。
このように横須賀製鉄所を影から支えているものもあるのです。
(元横須賀市助役 井上吉隆)