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横須賀製鉄所物語

永嶋家と横須賀製鉄所

横須賀製鉄所物語<30>

「木曽路はすべて山の中である。あるところは数十間の深さに臨む木曽川の岸であり、あるところは山の尾をめぐる谷の入口である」で始まる島崎藤村の小説『夜明け前』に出てくる公郷村の「山上家」が聖徳寺坂下の長屋門のある赤門です。『夜明け前』は、島崎藤村の父をモデルに青山半蔵として描いています。永嶋家も島崎藤村の実家もともに三浦一族の流れを汲む名家であり、島崎藤村の実家も筑摩県馬籠村(岐阜県中津川市)で中山道馬籠宿を開き、代々庄屋、本陣、問屋を営んだと伝えられます。島崎藤村はそこで生まれ育ち、後に父の姿を小説にと横須賀に足を運び、調査を重ね7年の歳月をかけて『夜明け前』を完成させた大作です。

その山上家即ち永嶋家は、「赤門」とか「田戸庄」と呼ばれていて箱崎半島の掘割を最初に開削しました。永嶋家は、1800年代から公郷村の名主で苗字帯刀をゆるされた由緒ある名家で、代々庄兵衛を名乗っていました。そして、『新横須賀市史』軍事編によりますと、横須賀製鉄所建設の地元協力者としてその名が表記されています。更に永嶋家文書によれば横須賀製鉄所への砂利・砂などの納入のほか「第二海堡」「第三海堡」の工事を請け負うとの記述が見られます。

フランスでは幕末期から三次にわたり軍事顧問団を日本に派遣しました。第二次軍事顧問団のマルクリー団長に当時の新政府陸軍・海軍の最高責任者である山縣有朋は、東京湾を視察させて「海岸防御方策」を提出させました。その内容について『東京湾第三海堡建設史』において「日本の海岸防御のためには東京を初めとする大都市を護る事である』とし特に東京に「東京湾口の品川湾・横浜・横須賀湾に軍備を設けるべきである」とし、具体的に東京湾口については「観音崎・富津岬・猿島に砲台を設け、さらに富津沖に海堡を設けるべきである」としています。

そして同書によれば1881年5月参謀本部長山県有朋と陸軍卿大山巌は太政大臣三条実美あてに連名で「東京湾防護線砲台築造費別途下渡シ之儀ニ付上申」を提出しました、明治14年から10箇年計画で工事費総額は245万円余と記されています。そして、1889年(明治22年)には参謀総長である熾仁親王から「増設海堡ノ要領」が陸軍大臣大山巌あてに提出され「第二海堡」「第三海堡」が新たに追加されました。

それぞれ年月をかけ建設されましたが、関東大震災でそれぞれ被害を受けましたが第三海堡は沈下し波浪を受けて暗礁となりました。そして、航路の安全確保・海上事故の防止の視点から撤去することとなり、漁業関係者との交渉が妥結し2000年(平成12年)から7年後の2007年(平成19年)に撤去が完了し、その遺構の一部が市内ニ箇所に保存されています。こうした日本の海防には、永嶋家は大きな役割を果たしましたが、永嶋家のご子孫は移転されました。その後お住まいの方が長屋門・浦賀道の道標を残されることになりました。

(註)「海堡」海上に人工的に造成した島に砲台を配置した要塞の一つ

(元横須賀市助役 井上吉隆)