毎年5月27日には「記念艦三笠」の講堂において、東郷平八郎、秋山真之ほかの遺族が招待され多くの関係者により「日本海海戦記念式典」が挙行されます。日本海海戦の勝利により、日本は欧米先進諸国から近代国家として認められることになりました。日本とロシアでは、国力の差は10倍もあり、海軍力においても大変大きな差がありましたので、世界のどの国もロシアの勝利を信じて疑いませんでした。日本は鎖国を解いてから50年後であり、近代海軍を創立して10年も経過していませんでした。従って、その時に日本海軍が保有する大型艦船の戦艦等は、海外からの輸入により整備していました。日本製の軍艦は横須賀海軍工厰(旧横須賀製鉄所)等で建造された巡洋艦や駆逐艦、水雷艇の小型艦艇でした。
『新横須賀市史 軍事編』によりますと、横須賀海軍工厰(旧横須賀製鉄所)で建造され、日本海海戦で活躍した艦艇として、巡洋艦では「橋立」「秋津洲」「須磨」「明石」「新高」「音羽」が、駆逐艦では「春雨」「有明」「朝霧」「村雨」が、そして10隻を超える水雷艇が参加して大きな戦果を挙げたと記されています。日本海海戦も夜間に入ると日本の小型船舶が、ロシアの被災した艦艇に対して夜襲をかけ激しい攻撃の末に、バルチック艦隊を殲滅したものでした。日本海海戦の勝利から間もなく、東郷平八郎は自邸に小栗上野介の遺族を招き、「日本海海戦の勝利は小栗上野介殿が横須賀製鉄所を建設していてくれた御陰です」とお礼の言葉を述べています。この場面は、小栗上野介の菩提寺の住職村上泰賢氏の『小栗上野介』、大島昌宏氏の『罪なくして斬らる』にもそれぞれ記されています。
東郷平八郎は、日本が勝利するためには外国からの輸入に頼るだけでなく、日本で建造した艦艇で戦うことをも頭の中に描いていたようです。そして、全ての艦艇のリニューアルを海軍工厰で実施し、戦いに望むことが出来ました。それが勝利に結びついたものだと述べているのです。このように日本海軍は、幕末における議論だと買船か造船かの議論があり、国を守る視点から考えると、自ずと結論は見えてくるので小栗上野介の明日を見る目に狂いはなかったのだと考えられます。そして、国難に立ち向かい大きな役割を果たした「記念艦三笠」の前に立ち、先人の偉業を偲ぶことも意義のあることではないでしょうか。
(元横須賀市助役 井上吉隆)