佐波一郎は、『新横須賀市史』によりますと1854年(嘉永7年)11月25日、佐原藩士・藤井喜一郎の二男として江戸小川町に生まれ、後に叔父の佐波銀次郎の養子となりました。
その後、14歳になって横浜に出て、メルメ・カションにフランス語を学び、1868年(明治元年)には横須賀製鉄所の黌舎に入校し、しばらくして、明治新政府により廃止されて行く先を失いますが、1870年(明治3年)に製鉄所の譯官の具申で黌舎は復活し、再び黌舎に戻り寄宿舎生活をしている時に、フランス人教師によりフランス語、数学、物理学、造船工学などを学びます。これらの講義はみなフランス語によるもので、まだ10代の少年がこのように非常に高いレベルの教育を受けていたので、さぞかし大変な苦労を重ねたことだと思います。
そして、1872年(明治5年)には、第一期卒業生として山口辰弥・川島忠之助・谷口弥八郎など7名とともに卒業しました。
卒業後には、医師として横須賀製鉄所に派遣されていた軍医サヴァティエに随行して、横須賀や近郊の地での植物採取の調査に大きな貢献を果たしました。また、船舶に大量に使用される木材調査のための通訳として、日本各地の官有地の調査にも当たりました。
そして、2015年に横須賀製鉄所(造船所)創設150周年記念展として実施された横須賀市立自然・人文博物館の特別展「すべては製鉄所から始まったMade in Japanの原点」の展示において、特別展示解説書によりますと「横須賀製鉄所ゆかりの植物たち」として、サヴァティエが新発見し、横須賀の名を付けた植物や、製鉄所ゆかりの人の名を持つ植物などの写真が展示されていました。さらに、サヴァテイエは「日本と西洋の植物を伝えた人」と評価すると共に、研究成果を「サヴァティエの植物学研究は、フランスの植物学者フランシェとの共著により、2巻からなる『日本植物目録』として、明治8年(1875年)と明治12年(1879年)にフランスで刊行され、日本植物学研究の教科書となりました」と記されています。
こうした研究の実施から研究成果の取り纏めに至る中で、造船技師のエリートであった佐波一郎はサヴァティエの研究を支え続け、日本の植物学の幕開けについて横須賀製鉄所が大きな役割を果たすことが出来ました。
さらに、佐波一郎は、1922年(大正11年)には、小栗上野介・ヴェルニーの記念銅像を諏訪公園に建設するに当たり、その発起人の一人として務めることになりました。
(元横須賀市助役 井上吉隆)