> 新よこすか風土記 > 横須賀製鉄所物語 > 横須賀製鉄所物語<51>

Story新よこすか風土記

横須賀製鉄所物語

ヴェルニーの帰国①

横須賀製鉄所物語<51>

1876年(明治9年)3月13日ヴェルニーはフランスに向け帰国します。はたして、徳川幕府の小栗上野介・栗 本鋤雲らの思い描いた横須賀製鉄所を具現化し、日本の近代化に大きな貢献をしたヴェルニーは、明治維新後にそ れらを引き継いだ明治新政府から感謝の念を持って見送られることになったのでしょうか。いえ、そうではありま せん。実際には、ヴェルニーの離日は複雑な思いで日本を離れることになりました。

徳川幕臣であった肥田浜五郎は、明治新政府の要請で出仕し、事実上の横須賀造船所長 (横須賀製鉄所は明治4年に横須賀造船所と名称変更します)に就任します。そして、『横 須賀海軍船廠史』明治8年紀5月20日によりますと「(略)本所事務改革案數條ヲ川村海 軍大輔ニ提出シテ其裁可ヲ得タリ本案ノ大要左ノ如シ」と記され、その内容は8か条にわた るもので、ヴェルニーが造船所長として持っている権限を大幅に削減し、その権限を海軍 省に移行するものでした。

ヴェルニーは首長として艦船の製造・艦船の船体及び艦内の修理などの権限のすべてを所有していました。その 権限について『横須賀海軍船廠史』明治8年紀11月15日の記述によれば「本所創業以来既ニ十餘ノ星霜ヲ經テ百事 殆ト整頓シタルヲ以テ海軍省ハ向後外国人ヲ本所首長ノ重任ニ置クヲ不必要ト認メ外務卿寺島宗則ヲ介シ佛国公使 サンカンタンニ本所雇佛人ウエルニー等ノ解雇ヲ承諾センコトヲ要求セリ」と記されています。

以上のことから、ヴェルニーに対して日本側が求めていたすべてが完了し、感謝の念を持って明治新政府の要人 から送り出されたものではなかったことがわかります。

ヴェルニーと肥田浜五郎の関係を決定づけたのは、製鉄所建設の候補地について意見の相違があった点にありま した。肥田浜五郎は横須賀は適地ではなく、江戸湾の奥にすべきとの意見を持っていて、再三にわたり幕府に意見 書を提出しました。その理由として横須賀では外国との戦争になった場合、敵が江戸湾めざし攻め入って来た時 に、最初に製鉄所が占領されてしまうので場所を変更すべきとの意見でした。しかし、ヴェルニーは工場の位置決 定と、江戸湾の海防計画とは別途に考えるべきとの意見でした。

こうした意見の相違が肥田浜五郎には胸の内にあり、若きフランス人技術者の意見の正当性を認めることはあり ませんでした。(以下次号掲載)

(元横須賀市助役 井上吉隆)