アメリカ側では遣米使節団正使一行を国賓として盛大な歓迎をすると共に、日本とアメリカの間の送迎費用、アメリカにおける滞在費用、咸臨丸の修繕費用についてもすべてアメリカ側で負担しました。更に、国から5万ドルの歓迎費用を支出し、各都市においても歓迎費用としてワシントン市、フィラデルフィア市ではそれぞれ1万ドル、ニューヨーク市では2万ドルを予定していましたが、いずれも予算超過で実際支出したのは20万ドル近くになったと言われています。
遣米使節団一行は、条約の批准書交換の大役を果たすと共に、アメリカ大都市を訪問する中で、ニューヨーク等の都市では夜はガス灯により白昼のような明るさに驚き、日本の首都とアメリカの都市との差があまりにも違うのを実感し、日本の都市をアメリカなどの先進都市と同様に近代化させなければと感じさせられました。更に、政府関係機関、都市の公式訪問のほかにも、まだ日本では設置されていない図書館も視察しています。そして、蔵書の中には日本人によって執筆された図書までが収蔵されているのには、ただただ息をのむ思いで見つめていました。このように、正使一行は日本がいかに先進国から後れを取っているか、政治はもとより文化、芸術面でも多くを学ぶこととなりました。こうしたアメリカ側の受け入れに、使節団正使一行は鎖国下の日本では小さく開かれた窓であった長崎から世界を見ていましたが、アメリカ視察で先進国の実態の一端を見ることにより、日本が近代国家になるためには何をなすべきか、新しい国造りについて大いなる刺激を受けると共に学んで帰国することとなりました。
帰国にはアメリカが用意した最大の軍艦「ナイアガラ号」により往路は太平洋横断でしたが、帰国は大西洋横断する世界一周の航路となりました。その後、無事帰国しましたが、大きな偉業を成し遂げたので大歓迎を受けるものと考えていたものが、現実には身近な人たちの温かい歓迎のみでした。築地の海軍操練所に上陸し旅装を解いた後に江戸城に登城しますが、日本を出発して間もなく遣米使節に大きな期待を寄せていた大老井伊直弼は桜田門の変で今は亡く、遣米使節団は静かに幕を閉じました。
(元横須賀市助役 井上吉隆)