徳川幕府が小栗上野介の建議により、製鉄所・造船所の建設を決定しましたが、これに反対するものも少なくはありませんでした。当時先進国で最大の造船国であったイギリスは、日本に大型船を建造する造船所が出来るはずがないとの声を上げます。このイギリスの主張に長州藩、薩摩藩が同調します。そして、徳川幕府においても江戸城内部で喧々諤々の議論が噴出して多くの藩主が造船所の建設に反対しました。その理由として「幕府財政が困窮している中で大規模事業を実施すべきではない」「製鉄所・造船所の建設をする余裕があるならば、それを倒幕を求める勢力に対し力を注ぎ、その勢力の解消に利用すべきだ」などの意見が江戸城内に沸き起こっていました。
そうした折、佐賀藩主鍋島斉正は、大型船を建造するためオランダから購入した機械類を、佐賀藩独自の力を持って造船所を建設することは不可能と判断し、買い求めた全ての機械類を徳川幕府に献納することになりました。幕府はこれを受けて、工場の建設に着手することにして、工場建設場所の現地調査を実施しました。そして、相州三浦郡長浦湾が適地と判断しました。
小栗上野介は、工場建設についてどの国に協力を求めるか考えました。自ら実際に稼働していたワシントン造船所を見て、その素晴らしさにアメリカを考えましたが、丁度アメリカでは南北戦争の最中でもあり、とても日本への協力を求めることは出来ませんでした。次に考えられるのは、造船大国であるイギリスですが、イギリスは日本の造船所建設には反対の立場なので協力を求めることは出来ません。そして、一番日本との関係が深かったオランダですが、オランダからは艦艇の譲渡までは協力出来るが造船所建設の協力の余裕はないとのことで、小栗上野介は頭を悩ませていました。そうした折にアメリカから購入した軍艦「翔鶴丸」の故障により、横浜に寄港していたフランス軍艦に修理を依頼すると快く引き受け、その修理は完全なもので担当した船員の対応も友好的なものであったので、フランスに製鉄所建設・造船所建設の協力を求めることにしました。
(元横須賀市助役 井上吉隆)