横須賀製鉄所建設に向けて徳川幕府から理事官をフランスに派遣することになりました。理事官はフランス人技術者の横須賀製鉄所への採用と大型船の建造に要する機械類の購入が主な目的で、その他軍港や海軍施設の視察にも当たりました。徳川幕府は外国奉行柴田日向守を理事官に任命しました。
柴田日向守は文久遣欧使節として、1862年(文久2年)に日本の開港・開市の条約の期限の延期についての交渉に当たりました。帰国後、外国奉行に任ぜられましたが、1864年(元治元年)には尊皇攘夷を旗標に、長州藩は関門海峡を通過する外国船を砲撃したことにより被害を受けた四カ国(イギリス、オランダ、フランス、アメリカ)はその報復として、四カ国の艦隊が下関を砲撃し、長州藩の砲台は悉く破壊され一部地域は占領されるなど、国際的にも非常に厳しい緊張関係にあり、国内的にも薩摩・長州両藩による討幕運動が動き始めたときでもありました。そして、1865年(慶応元年)に自身2回目のヨーロッパ派遣となりました。
この柴田日向守一行の渡仏に当たっては、『横須賀海軍船廠史』によりますとロッシュ公使が自らの部下に指示するように、10項目について指示をしています。ロッシュ公使は柴田日向守一行の成功を心から祈っていたものと思われます。
柴田日向守一行は、1865年(慶応元年)閏5月5日イギリスの船でフランス、イギリスの2カ国に向け出港しました。そして、マルセイユ港に入港しここで初めてヴェルニーに会い、若いこの青年に横須賀製鉄所建設の大事業が出来るのかと考えさせられました。その時、ヴェルニーは27歳の若さでした。しかし、その後ヴェルニーと帯同しての行動には目を見張るほど素晴らしいものでした。そして、最初の大きな仕事に取りかかります。パリに入り、外務大臣に面会しヴェルニーの横須賀製鉄所建設の責任者としての要請、そして、陸軍の教官の招聘について交渉を行いました。
(元横須賀市助役 井上吉隆)