小栗上野介は非業の死を遂げ、徳川幕臣として明治新政府軍に最後まで抵抗した逆臣とされてきました。そうした小栗上野介の名誉が回復されたのは、大正4年9月に実施された横須賀海軍工廠創立50周年の記念式典の時でした。当時の内閣総理大臣の大隈重信が海軍省参政官に代読させた祝辞において、「小栗上野介の尽力によりフランスが日本政府のために製鉄所創設を援助することを決定した。従って海軍工廠の創立は小栗上野介があってこそ」と言及し、この時やっと小栗上野介の名誉が回復され、賊軍の代表とされていた汚名を晴らすことができました。
小栗の知行地で、しかも明治新政府軍によって斬首された倉淵村(現在の高崎市倉渕町)では、小栗上野介の遺徳を偲び非業の最後を悼む村人たちは、寄付を集めて顕彰慰霊碑建立の計画を進めました。マイケル・ワート著(野口良平訳)『明治維新の敗者たち~小栗上野介をめぐる記憶と歴史~』によれば、「1931年倉田(くらた)村、烏淵(うぶち)村の支配層の人びとが小栗の記念碑をつくる組織を結成、記念碑に刻む文言を蜷川に依頼した」と記されています。
当時こうした碑の建立にあたっては、内務省の許可が必要で、受付窓口は警察署でした。村人たちは碑の文言については、小栗上野介の義理の甥に当たり、駒澤大学、同志社大学で教鞭を執ったことのある、国際法、外交史の権威の蜷川新に依頼しました。
蜷川は、第一案として「幕末の偉人小栗上野介終焉の地」、第二案として「偉人小栗上野介罪なくして此所に斬らる」の碑文を書き記し、村人たちに示します。村人たちは第二案の「偉人小栗上野介罪なくして此所に斬らる」を採用し、内務省宛の届け出をすると、受付担当の警察署から「碑文に罪なくして斬られるとあるが、斬ったのは官軍だ。官軍は天皇様の軍隊だ。天皇の軍隊が罪のない者を斬るはずがない。なんとかしろ」との難題を突きつけられます。しかし、この難題にも蜷川が対応し、現在の河原に建立された碑が残されることになりました。
※1955年群馬郡倉田村と烏淵村が合併し倉淵村となる。
(元横須賀市助役 井上吉隆)