江戸の町が外国人に開放(開市)されるようになったのは、1868年1月1日(慶応3年12月7日)のことです。外務省のホームページによりますと、西欧諸国と結んだ修好通商条約により、兵庫、新潟の開港と江戸・大坂に外国人の居留を許可すること(開市)の延期を求めて、1862年竹内下野守以下の使節団がフランスを訪問した後にイギリスに渡りました。イギリスではオールコック大使が帰国していてその助言もあり、1863年1月1日から5年間の延長が決まりました。この取り決めで取り交わした文書は「ロンドン覚書」と呼ばれています。このように、江戸の町が開かれることになり、イギリス公使ハリー・パークスは徳川幕府に対してホテル建設を強く要請してきました。そこで徳川幕府は、築地舟板町の軍艦操練所跡地(旧築地市場の立体駐車場)のあたりにホテルを建設することにしました。
小栗上野介は「民間でこれを行うものがあれば、土地は幕府が無償で提供し、利益は経営者のものとしてよい」との条件で事業者の選定をすることにしました。これに応じたのが清水組(現在の清水建設)の二代目清水喜助で工事だけでなく、経営も引き受けることになりました。
清水建設株式会社が昭和48年に発行した『清水建設百七十年』によりますと、「築地ホテル館は、幕府の外国作事方の設計で慶応3年7月着工、その後10月の幕府の大政奉還、翌4年(1868年)4月の明治新政府軍の江戸入場、更には二代目喜助とともに幕府の依頼を受けて事に当たっていた金主吉池某の離脱等の混乱があった中で、慶応4年8月一か年という短期間でホテルは完成しました。この間、幕府という注文主がなくなり、明治新政府に代わったわけですが、明治新政府も戊辰戦争の後始末や、新政府の基礎づくりで一般市民のことまで手が回りかねたので、ホテルの工事継続とその後の経営についても、清水屋が中心になって行わなければならなかった」と記しています。
ホテルの敷地は、幕府海軍操練所の一画約7,000坪で、現在の勝鬨橋に接して海に面した景観からも最高の場所であったと想像できます。ホテルの規模は、客室102室、木造2階建(一部3階)、延べ床面積1679.7坪、水洗トイレ、シャワー室、ビリヤード室等も完備されていました。このように、洋式建築では国内最大のものであったと言われています。『清水建設百七十年』によりますと、「洋式建築になじまない当時の人々は、このホテルを見て感嘆し錦絵作者は絶好の材料として(ホテル館の図)を描き、全国に知らされていった」と記されています。しかし、1872年(明治5年)銀座の大火により、由緒あるこの建物は、惜しくも焼失してしまいました。
こうした日本近代化の先駆的な事業にも小栗上野介が関係していたことを改めて考えてみる必要があるのではないでしょうか。
(元横須賀市助役 井上吉隆)