小栗上野介が生前に残したものは、横須賀製鉄所だけではありませんでした。
日本が開国したことにより、外国との間の輸出入により多くのものが交流することになりました。そのすべてが外国の商社による取引で、これらの取引による収益は外国の手に渡ることになりました。
その実情を小栗上野介は見て、このまま放置しておくと徳川幕府だけの問題ではなく、日本国としても大きな経済的損失となり得るので、日本においても独自の商社を立ち上げて、その商社により取引することを考えました。
坂本藤良『小栗上野の生涯』によりますと、経済学者の菅野和太郎の言葉を引用して「この商社設立のことを最も早く唱えだした者は、実に小栗上野介であって、同氏は万延元年遣米使節の一行に参加し、渡米し、悉に米国に於ける財政経済上の新知識を会得し殊に、コンパニーに関する知識をもたらし帰った」と記されています。
また、小栗上野介の具体的な計画内容は、坂本藤良『小栗上野の生涯』によりますと、「1出資者を20人の大坂商人とする 2彼らに100万両出させる代わりに、金札を発行させるという計画である」と記されています。そして、一般市民にも出資を呼びかけ勧誘したと伝えられています。
小栗上野介は、こうした計画について1867年(慶応3年)4月に「兵庫商社」の設立を幕府に建議します。幕府は6月には商社の設立を決定します。1867年(慶応3年)6月5日、幕府は主だった大阪の富商20名を京都の旅館に集め、彼らを役員として商社を設立しました。その役員は次のとおりです。
重役である頭取に、山中善右衛門(鴻池屋)、広岡久右衛門(加島屋)、長田作兵衛(加島屋)が、また、肝煎として、殿村兵衛門(米屋)、和田久左衛門(辰巳屋)、高木五兵衛(平野屋)、平瀬亀之輔(千草屋)、白山彦五郎(炭屋)が選任されました。
商社の事務所は、大阪の中之島に置かれ、役員は出勤することになりましたが、実際には役員本人ではなく手代を代わりに出勤させていたようです。そして、月番として一ヶ月の交代制がとられていたとのことです。しかし、こうした兵庫商社設立について、万端の準備が整えられましたが、発足後間もなくこの計画が挫折することになりました。それは徳川慶喜が大政奉還し、政治から身を引くことになったからです。
こうして日本最初の株式会社である兵庫商社は、小栗上野介の夢が実現することなく消えてしまいました。
(元横須賀市助役 井上吉隆)