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横須賀製鉄所物語

会津若松市との姉妹市提携

横須賀製鉄所物語<83>

横須賀市と会津若松市との間で姉妹市提携が結ばれたのは、2015年4月17日でした。横須賀市議会議員もかなり以前から、自ら会津若松市を訪問して、姉妹市提携の要請をしていましたが、実現には至りませんでした。

横須賀市と会津若松市との関係は、1384年(至徳元年・元中元年)に三浦一族の蘆名氏七代目当主である蘆名直盛(あしな・なおもり)が、東黒川館を建設したのが会津若松城の始まりで藩主としてこの地を治めていました。

そして、両市には郷土史研究会として、会津には「会津史談会」、横須賀には「三浦一族研究会」があり、古くから交流が続けられてきました。こうした歴史的な連携があるにもかかわらず、なぜ姉妹市提携がされなかったのか不思議でなりませんでした。

しかし、この姉妹市提携について大きな障害があることが、1999年(平成11年)11月15日に出席した会津若松市の市制施行100周年記念式典で判明しました。

式典終了後に開催された懇親会の席上で、菅家一郎市長(現衆議院議員)と直接お話しする機会が得られましたので、市長に姉妹市提携を早急に結んでいただきたいとお願いして、以下に掲げる横須賀市との関りについて説明させていただきました。

1)三浦一族が会津若松の藩主として誕生したこと。

2)幕末期に三浦半島の海防に会津藩が従事し、現地で死亡した藩士の墓地があること。

3)小栗上野介が新政府軍にとらえられ、斬首された折に、小栗上野介の妻女は会津に落ち延び、そこで一子をもうけていること。

すると、3)については、初めて耳にしたということで大変興味深く耳を傾けられていました。しかし、姉妹市提携を結ぶには、斗南藩との関りを無視できないということでした。それは、明治新政府になり会津藩がどれほど苦難の道を歩んだか、その折には斗南藩にどれほどお世話になったか、これを無視するわけにはいかないということでした。「しかし、100周年を機会にこれも解消しますので、今後の課題として受け止めましょう」と嬉しいお言葉をいただきました。そこで、菅家市長に11月に小栗ヴェルニー祭が実施されるので、是非ご出席いただきたいとお願いしました。菅家市長には、式典に参加していただきました。式典終了後の懇親会にご案内しようとすると会津藩士の墓に墓参したいと申されたので、鴨居の会津藩士の墓にご案内しました。

後日、会津若松市からの連絡で、「市長の突然の訪問にもかかわらず、墓地周辺はしっかりと掃き清められ、墓石もきちんと管理されていて、市長は大変感銘を受けられた」との知らせを受け、これがきっかけとなって姉妹市提携が具体化していきました。

(元横須賀市助役 井上吉隆)