1853年マシュー・C・ペリーに率いられたアメリカ東インド艦隊が浦賀沖に来航しました。黒塗りの船体と煙突から上がる黒い煙を見て浦賀の人たちは「黒船」と呼び驚きました。
ペリー一行の軍艦は当時の世界に於ける最新鋭の軍艦サスケハナ(蒸気外輪式フリゲート)、ミシシッピ(同仕様)、サラトガ(帆走スループ)、プリマス(同仕様)の四隻でした。この軍艦は全て鋼鉄船では無く木造船だったのです。そして動力は風力が中心で、一部の軍艦には蒸気機関が整備されていましたが、風力による航行に依存することが多いので、ロープの需要が多かったのです。
「横須賀開国史研究会」発行の「横須賀土産」によりますと製綱所においては「艦船の使用する大小の綱を造っていました。長い綱を造るため製綱所の建物は長大なもので、長さは270メートルもありました。そして、製綱所の西側には時計台が設けられ、見物の人々の目をひきました。」と記されています。また、横須賀市発行の「横須賀案内記―製鉄所からはじまった歩み-」によれば「横須賀土産」と同様の内容と供に「…動力には六馬力の蒸気機関が備えられていました。建物は千百七十五坪で瓦葺き漆喰塗り煉瓦造、内部は白壁になっていました。製綱所の西側には、時計台が設けられ、造船所のシンボルとして人々の目をひきました」と記されています。
製綱所は、現在の京浜急行電鉄バス「汐留」停留所の位置の辺りから、在日米海軍基地に向けて建設されていたものと思われます。さらに、製綱所の西側に隣接して「水溜(みずため)」設置されていました。「横須賀土産」によりますと「幅6メートル、長さ60メートル、深さ2メートル60センチで、切石と煉瓦などで造られていました。走水より引いた水道水を貯え、ポンプにより造船所内の諸工場や停泊中の艦船に水を供給していました」と記されています。しかし、走水の水道水も横須賀製鉄所の規模の拡大、大型艦船の入港も増加し不足することとなり、三浦半島を越え水源を求めることになりました。(以下次号)
(元横須賀市助役 井上吉隆)