横須賀製鉄所も徳川幕府から明治新政府に引き継がれ、ヴェルニーにより開発された走水水道も海軍の手に移りました。
横須賀製鉄所の規模の拡大と人口の増加により、横須賀製鉄所への給水能力の向上を図ることが急務となりましたが、三浦半島内では求められず、新たな水源として、相模川の支流中津川の清流に着目しました。その後、現在の宮ヶ瀬ダム直下の石子屋・半原から取水することに決め、海軍では早速に地元交渉に入りました。この半原系水道事業は、当時海軍にとっては大工事でした。
1912年(明治45年)2月に着工し、半原の取り入れ口から逸見浄水場に至る落差約70メートル、総延長52キロメートルという巨大事業でした。その間には12カ所の隧道(トンネル)が掘られ、河川の横断には10余りの水管橋が架けられました。そして、この管路には鎌倉の円覚寺、建長寺の前を通り、北鎌倉から鎌倉へのトンネルの横を通り、鎌倉八幡宮の前から逗子のなぎさ通り(通称「水道みち」)を経て田浦配水池へと通水されました。これも海軍の強力な力が発揮されて完成したものと考えます。
この工事は、着工以来10年の歳月を要し、総工費は約384万円で、当時としては巨費が投じられ、1918年(大正7年)10月には一部通水が開始され、1921年(大正10年)3月に工事が完了しました。
この半原系水道の給水能力は、一日13,000立法メートルで、当時の海軍においても相当余裕のあるものでした。そこで、横須賀市は1912年(明治45年)6月21日に海軍に対して半原系の水に余剰水が出るようなので、その水道水を分水するよう海軍に対して願い出ました。
1913年(大正2年)7月、横須賀海軍司令長官から「走水系統の施設については、無償で貸与、それで足らない分は半原系に余裕のある限り、浄水を分与する」という回答がありました。そこで、横須賀市では1917年(大正6年)12月に、水道事業計画の認可を得ました。その内容は計画給水人口10万人、平均給水量を1日8,348立方メートル、工期を大正6年から8年まで3カ年とするものでした。走水水道だけに頼っていたときは、市内の小川町、若松町、大滝町の3町内であった給水エリアが、当時の市内全域に近代的な水道が給水されることになりました。そして、その後には、神奈川県営水道の協力を得ながら相模川、酒匂川の開発に取り組み、現在の水道水の供給体制が整備されることとなりました。
(元横須賀市助役 井上吉隆)