外国人専用ホテルの建設に向けて、小栗上野介の対応は早く幕府として直接建設するのではなく、アメリカで見てきたように、株式会社方式によって建設できないかを検討して、その結果をもとにして幕府は1867年(慶応3年)の春過ぎに市中に布告を出しました。その内容は、築地に外国人旅館を建設するというもので、土地は幕府が無償で貸し与え、そこに応募者が自前でホテルを建設し、そのホテルの経営を行うという条件で、応募者を募りました。
この布告文の中では、ホテルの名称は使わずに「外国人旅館」としていました。しかし、この布告が出されてからこれに応募する者がなかなか現れませんでした。しかし、ついに手を上げた人が現れました。宮大工棟梁清水屋の清水喜助でした(現在の大手ゼネコン清水建設の創業二代目)。これで幕府も応募者が現れたのでホッとしました。清水屋は、横浜開港によって店を横浜にも開くことになりました。そして、神奈川奉行所関係の仕事や横浜外国人居留地の仕事を精力的にこなしていきました。特に、北方製鉄所は、後に、横須賀製鉄所が建設されると、関連施設としての横浜製鉄所となり、その北方製鉄所の建設にも参画していますので、清水喜助は小栗上野介とは関係があったのではないでしょうか。
徳川幕府は、ホテルの建設用地として、直前に火災で消失した築地の軍艦操練所の跡地を当てることにしました。この土地は最近まで旧築地市場の駐車場を中心とした地区で、錦絵から想像してみてください。
そして、ホテル建設は、イギリス公使館の指定によりアメリカ人建築家のリチャード・P・プリジェンスがホテルの意匠、基本設計を実施して、清水屋が実施設計と工事の施工するとの分担が決まりました。清水屋は、このホテル建設のために事業実施の仲間を集めて社中を結成しました。この社中は、ホテル建設後の建物を引き継ぎ、ホテル経営も手がけることになっていました。
(以下、築地ホテルについて、永宮和「『築地ホテル館』物語」を参考にさせていただきます。)
(元横須賀市助役 井上吉隆)