築地ホテルが完成し、その4年後の1872年(明治5年)4月に江戸では春の嵐が吹き荒れ火災が発生しました。火元は皇居和田倉門の兵部省から出火したもので、瞬く間に丸の内一帯に所在した旧各藩の藩邸や、その施設を利用して設置された明治新政府の庁舎まで全焼してしまいました。火はさらに勢いを増して皇居の外堀を越えて、銀座一帯まで飲み込みました。それでも火の勢いは衰えることもなく、現在の歌舞伎座のある木挽町までを一気に全焼してしまいました。
この大火災は、明治新政府にとって京都から東京への首都機能移転するのには大きな痛手であり、首都機能構築は容易ならざる事態であり、遅延を余儀なくされました。
この火災の被害規模は、永宮和「築地ホテル館物語」によりますと、消失面積96万平方メートル、省庁、公館13棟、政府関係者居宅34棟、寺院58ヶ所 町屋4,879戸と記されています。
この大火災により日本の幕末における外交や都市の文化、そして建築史に歴史遺産として名を刻まれたであろう建築物が全焼し、再建されることもなく姿を消し去りました。
そして、この大火で築地ホテルも全焼し、その後も復活されることもなく外国人ホテルは姿を消してしまいました。
それから14年が過ぎ1886年(明治19年)になると明治新政府は外国人旅行者を対象とした国策ホテルの建設を決定しましたが、決定しただけで建設するわけでもなく、民間企業に対しても積極的に働きかけもせず、ただただ民間企業の動きを見守るだけでした。
一方、この大火災に遭遇した「築地ホテル」は、全焼しましたが、幸いにも宿泊客が無く人身事故もありませんでした。
そして、明治新政府が国策ホテルを決定した4年後に、渋沢栄一が設立会社の理事長となり現在の「帝国ホテル」が華々しくオープンしました。
(元横須賀市助役 井上吉隆)