明治維新に至るまでの国の守りは、陸上に目が注がれていました。しかし、島国である日本にとって、国の守りの重要性をペリーの来航によって徳川幕府は痛切に感じさせられました。そして、恐怖と多くのことを学びました。その一方で、地元の浦賀では驚きとともに興味半分で、上陸したアメリカ人との交流ができたようです。浦賀の民家にはアメリカ人から貰ったという大きなシチュウ鍋が残されています。
徳川幕府は海の守りのため、海軍を立ち上げることの重要性を感じました。しかし、何をどのようにするのか手探りの中で、人材育成については、オランダの協力を得て、長崎の地に海軍伝習所を設置して、オランダから講師を招いて、航海術などの指導を受けました。一方、海の守りのための艦船は専ら先進国で建造したものを購入して対応していましたが、新造船として売り込まれたものも、内部を良く点検すると古い材料が使用されていて、見せかけだけは新造船に見えるものばかりでした。これも幕府の対応が問題で、先進国の言葉巧みの売り込みに乗せられていたので、専門に対応出来る人材の育成が急がれました。
幕府内部の議論の中では、艦船の建造を自ら実施するかどうかが中心となり、勝海舟は「艦船は今までのように先進国から購入し、先ず人材育成を実施すべき」という意見を申し出ました。そして、「国内で海軍の艦艇を建造するには500年はかかる」という意見を述べ、結論がその方向に向かうものと思われましたが、小栗上野介がワシントン造船所視察した経験から、「幕府自ら艦船の建造をすべき、併せて人材育成をすべき」という意見を述べ、勘定奉行であった小栗の意見が採用されることになりました。
後日、国内で艦船の建造する場所が横須賀の地に決定することになり、此所に幕府海軍の誕生に向けて本格化しました。
(元横須賀市助役 井上吉隆)