金沢の野島には、かつて、重厚な門構えのある屋敷がありました。
江戸湯島聖堂の儒官だった永島段右衛門祐伯氏(雅号・泥亀)は、晩年野島に移り住みました。その後、永島家は、明治に至るまで9代200年にわたり、度重なる苦難を乗り越え、干拓事業に取り組み、開発した広大な干拓地(泥亀新田)で製塩業を営み、金沢の経済の発展に寄与してきました。しかし、時代は移り変わり、明治政府が製塩地整理法を施行した結果、金沢の塩田は整理の対象となり、永島家は近代化の波に押し流されてしまいました。その後、この屋敷や泥亀新田は戦前の出版界をリードした博文館の大橋新太郎氏(尾崎紅葉「金色夜叉」のモデルとされる)が買い取りました。地元の産業の発展や称名寺金沢文庫の復興などに尽力した大橋家は、永島家に変わり、地域経済を牽引していきました。しかし、時代は移り変わり、終戦後の農地改革により広大な土地は接収されました。
永島家と大橋家が所有していた牡丹園は、開花時期になると一般に開放されていました。この辺りの人たちに愛された牡丹は、金沢区の花に公募で選ばれ、両家に変わり、金沢の街を今でも見守り続けています。