横須賀製鉄所は、明治維新により徳川幕府から明治新政府に引き継がれ、1871年(明治4年)には「横須賀造船所」と名称を改めました。そして、横須賀製鉄所建設に多大な功績を残したヴェルニーが帰国し、明治10年代に入りますと横須賀造船所は重要な軍事産業施設なので、秘密のベールに覆われ一般国民には見学が許されませんでしたが、明治新政府にとっては西欧戦諸国に引けを取らない日本産業の近代化を示す唯一のモデル工場であり、日本の産業革命を果たした拠点としての役割を実現したものなので、造船所の指定業者や周辺の旅館が見学手続きを代行する事によって見学が許可されました。見学者の中には、トヨタ自動車の創業者も見学されたと、関東自動車工業株式会社の社長が社内報に一文を寄せています。そして、見学者の好評が噂に噂を呼び、伊勢参り、大山参り等の時期を中心に多くの人が見学に訪れ一大観光名所になったと言われています。
そして、『横須賀土産 横須賀造船所散歩』と言う絵図が発行され、見学者に配布されました。横須賀開国史研究会では明治28年鈴木卯兵衛氏の発行した『横須賀明細一覧図』を復刻致しました。一覧図によりますと「JR横須賀駅」から汐入町の「子神社」までの陸地部分と、その東側の現在の在日米海軍基地の部分が描かれていて、米軍基地の部分には造船所の機能として「船台所」が大型3カ所、小型2カ所が設置されていて、説明によると「船台はすべて陸地を斜めに海中まで掘り下げ、扉によって海水をせき止めました。そして、船台の中には、建造中の艦船が傾かないように盤木が置かれました。さらに艦船の建造中は、船台の周囲に仮小屋を築き、その中で作業が行われました。職員も横須賀造船所では最も多い800人余りが所属していました。」と記されています。
そして、現在も使用されているドライドックは「船渠」として記され「艦船の修理や船底の清掃に使われる施設(ドック)艦船が入ると入り口を閉じ、排水ポンプで水を抜き、船底の修理、速度を遅くする貝や海草を取り除く作業などを行いました。大、中、小の3基の船渠があり、当時の大型艦である10,000トンクラスから小型艦まで入渠させることができました。入り口の開閉や排水ポンプの動力として、蒸気機関11基が設置され、103馬力もありました」と記されています。このドライドックは基地内にあるため自由に見学出来ませんが、春、秋には基地内の文化遺産の見学ツアーが実施されますので、市のホームページや「広報よこすか」等で確認して、明治期の偉大な人達の努力によって完成し、関東大震災にもビクともしなかったドックを確かめることも意義あることでしょう。
(元横須賀市助役 井上吉隆)