横須賀製鉄所(造船所)は、造船、船舶の修理だけでなく当時の日本としては、驚くべき製造工場等の集積が図られ、一般国民には到底想像できないものでした。「一覧図」によりますと官庁として「役所とも呼ばれ、造船、機械、艤装、庶務、記録、製図などの諸科がありました。これらの諸科が造船所の事務一般を担当し、工場の運営や艦船の建造、修理などの計画や職員の人事などを行っていました」と記され、また、こうした大工場を運営するには、多くの優秀な人材が必要で、特に造船技術の専門家を配置しなければならないので「黌舎」との名称で造船技術の高等専門学校を設置して、多くの優秀な造船技術者が育成されました。
その中で特に優れた人はフランスの造船学校に留学することができました。しかし、「黌舎」も横須賀海軍船廠史の明治9年紀のヴェルニーの在職中における経過報告によれば、「1868年(明治元年)政府ノ命ニヨリテ造船學校ヲ全廢セリ1870年(明治3年)大隈・伊藤二氏造船學校再置ノ建議ヲ容レ1872年(明治5年)ニ至リテ正則變則ノ二校ヲ開設セリ」と記されており、人材育成も政府の交代によって評価が異なり、順調に運営されることではありませんでした。そして、「黌舎」は、1882年(明治15年)に廃止され、現在の東京大学工学部に引き継がれました。また、製鉄所(造船所)では、作業の開始・昼食・作業の終了を知らせるため、敷地中央部山の手に「鳴鐘」と呼ばれる鐘が設置され時を告げ、それまで日本では仕事は日の出から始め、日の入りまででしたが、時刻による現代の就業が行われました。
一方、製鉄所(造船所)内では大量の材料・製品を移動させるために「構内鉄道」が敷設され、重量のある製品が容易に運搬されていました。この「構内鉄道」は当初人力で走行されていましたが、後に機関車が導入されることになりました。そして、施設内での水需要については、周辺の湧水では不足することになりヴェルニーは現地調査を実施し、走水から水道水を引き込むことにしました。走水から工場まで4か所のトンネルを掘り、7,000メートル余の水道管が敷設されました。工場では「水溜所」が設置され水道水を受け入れました。そこからポンプにより各工場や停泊中の艦船に給水していました。
この様に工場は当時の日本としては、最新の工場設備を持つ総合工場で、ここで生産された機械設備などにより「富岡製糸場」「生野銀山」「愛知紡績所」などが稼働することができました。それまでの日本は手工業の時代でしたが、こうした機械設備により近代的な産業へと生まれ変わり、近代産業国家へと大きく変身することになりました。ここに西欧先進諸国と同様に産業革命が実施されたのです。日本の産業革命を語るときには「横須賀製鉄(造船)所」を真っ先に取り上げなければならないでしょう。
(元横須賀市助役 井上吉隆)