横須賀製鉄所の建設には、各方面からの反対がありました。外国ではイギリス、討幕運動の中心であった薩摩・長州を始めとする各藩、それだけではなく幕府内部からも「財政窮乏の折から巨額の資金が支出できるのか」「建設資金をもって討幕勢力に対応すべきだ」との意見が出ました、そうした中幕臣である肥田浜五郎は「建設位置について横須賀ではなく江戸湾のもっと奥に建設すべき」との意見を執拗に主張し続けました。その肥田浜五郎とはどのような人物だったのでしょうか。
1830年(文政13年)伊豆八幡村(現在の伊東市)に生まれ、韮山代官江川英龍(太郎左衛門)に仕えます、彼が優れた才能を発揮したので長崎海軍伝習所に派遣されます。そして、1860年(万延元年)には日米修好通商条約の批准書交換のため正使の乗船する「ポーハタン号」の随伴艦として「咸臨丸」が派遣されることになり、肥田浜五郎は蒸気方として選ばれ渡米します。
帰国後には、幕府の大型船の建造禁止の解除により石川島で大型船の建造に参加しますが、見事に失敗し幕府は大型船建造のため、先進国で技術の伝習と機械の購入のため、肥田浜五郎をオランダに派遣します。しかし、その直後には幕府はフランスの技術援助により横須賀に製鉄所を建設することとなり、フランスに派遣された幕府のものと協力することになりました。このときオランダで買い付けたスチームハンマー6基のうち3トン、0.5トンの2基がヴェルニー記念館に展示されています。
しかし、その後尊王攘夷運動が激化し、徳川三百年の歴史は幕を閉じ職を失い伊豆に戻ります。しかし、1869年(明治2年)明治新政府から出仕を求められ民部省に勤務し、勤務場所が変更する中、横須賀製鉄所勤務となります。そして、『横須賀海軍船廠史』の明治三年紀によると「11月肥田土木工部少丞ニ任ジラレ山尾工部權大丞ト共ニ製鉄所ノ事務ヲ總理ス」とあり製鉄所の責任者になりました。在職中には明治4年に明治新政府は製鉄所を造船所と名称を改め、造船所開業式の実施・造船技術者養成ための「黌舎」の運営・明治天皇の行幸啓行の受け入れなど多くの事業を実施し、1876年(明治9年)に造船所を退職し、1886年(明治19年)には海軍機技総監となり日本海軍の機関部門のトップに昇進します。同年に宮内庁御料局が新設されその局長となります。
こうした中でも日本鉄道会社の創立や、第15銀行の設立にも参加するなど、旧幕臣としては異例の出世をしますが、1889年(明治22年)藤枝駅で列車から転落し死亡しました。当時列車には手洗いがないので駅で済ませたところ列車が入り,急いで乗車したが転落したもので、その後列車には洗面所、手洗いが設置されました。肥田浜五郎は横須賀製鉄所に関連した異例の人といえるでしょう。また明治新政府には人材が枯渇していたから異例の出世ができたものと思います。
(元横須賀市助役 井上吉隆)