横須賀製鉄所の建設がフランスの技術協力により進められることになり、徳川幕府は建設場所について長浦湾を予定していました。駐日フランス公使ロッシュから長浦湾の現地調査の申し出があり、フランス側と共に小栗上野介以下が参加して測量調査した結果、長浦湾は水深が浅いために造船所としては適地でないとの判断が下され、隣接する横須賀湾の方が、湾の形状、水深の面からも適地であるとの判断が下された。加えてフランス人からは母国のツーロン港によく似た地形であるとのことも、建設場所判断の要因の一つになったとも言われている。
しかし、この場所の決定について幕臣でもある肥田浜五郎は、江戸湾の入口に製鉄所(造船所)を建設したのでは、外敵から攻められた時に真っ先に占領されてしまうので、江戸湾の奥に当たる石川島や越中島が適地であるとの意見書を提出している。そして、それも一度のみならず執拗に主張されました。
このように反対意見が繰り返し提出されたのは、単に立地についての意見だけではなく、他にも要因があったものと考えられます。それは、横須賀製鉄所建設が決定する直前に、石川島造船所拡充のため肥田浜五郎はオランダに派遣され、大型船建造のための機械の購入、技術の伝習を命じられましたが、横須賀製鉄所の建設が決定されたことに伴い、その中止やフランスへ派遣された幕臣への協力など、短い期間に幕府の命令が二転三転したことと、長崎海軍伝習所とオランダで学んだ造船学が生かすことができなかったことも、その理由と考えられます。
もし、横須賀でなく石川島や越中島に大型船の建造施設が完成していたらどうでしょう、輻輳する東京湾の海上交通、それに伴う海難事故の増加。そして、日本経済の中心都市である東京の都市機能を考えた時には、現在の位置に決定したことは正解であったと考えます。
(元横須賀市助役 井上吉隆)