作家の芥川龍之介が、横須賀の汐入に間借りをし、海軍機関学校の英語の教師をしていたことはよく知られている。この時に親しくしていた人の一人に岩淵百合子がいる。岩淵百合子は明治十八年、小田原藩士井沢巻次郎・ツネ夫妻の娘タケとして生まれた。女学生になるころからペンネーム「百合子」として与謝野鉄幹・晶子が起こした「新詩社」の機関誌「明星」に短歌や詩を送っている。
その百合子がなぜ横須賀にいるのか、それは岩淵陸奥丸という十四歳年の差のある産婦人科の開業医と結婚をしたからであった。結婚が十代の終わりごろであったことは、明治三十七年には長男、四十五年には長女が誕生していることでわかる。結婚をし、母になっても創作活動は続けており、明治四十三年ごろには、横須賀の日刊新聞の相模中央新聞や公正新聞の選者になり、さらにアララギ派の歌人伊藤青暮らと歌誌「白星」を創刊し、当時の横須賀歌壇の中心的な存在となっていった。
このころに自由で闊達な環境と夫・岩淵の交際上手などが相俟って、岩淵の家はちょっとした文学サロン的になっており、芥川をはじめ吉井勇、久米正雄、大仏次郎などが出入りしていたことがわかっている。百合子は、歌や詩の世界だけでは満足せず、近代女性解放運動を展開した「青鞜社」に入り活動をしている。百合子が「元始、女性は太陽であった」という青鞜社の中心的な人物であった平塚雷鳥の一文に接して「青鞜」の運動に入っていった背景には、「新詩社」時代から交流のあった与謝野晶子の影響があったものと思われる。
青鞜社の運動は、家制度に縛られた従属的な女性に、新しい自覚を促し、自由意思に基づいたヒューマニズムを生活規範にしようした運動であったが、この運動に対する当時の社会の眼は冷たく「新しい女」と批判的に呼び、批難する人が圧倒的に多かった。しかし、こうした状況下でも夫・岩淵陸奥丸の理解にも救われ、百合子は極めて進歩的、革新的に生き抜いてきた。昭和三十四年に七十四歳で波乱に満ちた人生にピリオドをうった。
(横須賀開国史研究会 会長 山本詔一)