> ブログ > ノンカテ > デッカー司令官の「異動」?

Blogブログ

ノンカテ

デッカー司令官の「異動」?

1946年、ベントン・ウィーバー・デッカー司令官は、第4代横須賀米国海軍基地司令官として、第二次世界大戦後の混沌とした横須賀に着任しました。

「人からしてほしいと思うことをその通り人にしなさい」という信念に基づいて、横須賀市を民主的な経済都市として、新しい商工会議所、婦人会、赤十字会、福祉委員会などの設立を促し、さらに横須賀市の文化、教育、救済などあらゆる社会的事業にも貢献しました。

具体的な例を挙げますと、横須賀学院や栄光学園などの学校施設の設立、また、ヨゼフ病院、衣笠病院などの医療機関の設立、福祉対策の拠点として機能させた横須賀基督教福祉会館の設立などがあります。横須賀にとっては、「晴天を衝く」勢いです。

また、「横須賀の工業再生化」として、連合国軍最高司令部(GHQ)に、既に廃止されていた追浜飛行場の跡地に平和産業に寄与する企業や工場に払い下げるというプランを提出し、承認を受け、すぐにプランを実行に移しました。当時多くの市民が失業していたことを考えると即効性のある経済対策となったことでしょう。

1948年、横須賀市議会は、これらの実績に感謝し、デッカー司令官の留任願いをマッカーサー元帥宛に送り、受理されました。

通常任期は2年間ですが、この嘆願書により、2期に亘り合計4年間、横須賀市の経済の復興に尽力しました。

1949年、横須賀市役所前の公園に、日本人の手で初めて創られたアメリカの軍人胸像が設置されました。

1995年、デッカー司令官の胸像がある市役所前の公園に地下駐車場が設置されることになり、横須賀中央公園に移設されました。

2011年、市民グループ「横須賀学の会」により、デッカー氏在任中の回想録が翻訳され、これらの足跡をまとめた『黒船の再来』が出版されました。

2021年、深田台の「中央公園」が「平和中央公園」に名前が変わり、平和のモニュメントも新しくなりました。周辺の階段やスロープが整備され、公園のどこからでも東京湾を見渡せるようになりました。

2021年、デッカー司令官の2度目の「移動」となりました。

(参考資料「タウンニュース」「創年日日タイムズ」「黒船の再来」「すまい造りメール第100号」)