梅雨時の風物詩といえばアジサイです。最近では色鮮やかなアジサイを多く見かけるようになりました。本来は日本原産の落葉低木で比較的落ち着いた色合いが主流でしたが、ガクアジサイが西洋に渡り品種改良が重ねられ、西洋アジサイとして日本に逆輸入されています。
ドイツ生まれの医師・博物学者のシーボルトは、江戸時代に長崎・出島のオランダ商館の医師として日本へやってきました。鳴滝塾で日本人医師を育成する傍ら、日本の風物や植物などを世界に広く紹介したことでも知られています。ただ、シーボルトの真の来日目的は、当時世界中と貿易をしていたオランダが日本との貿易のために市場調査をさせるためとか、プロイセン政府が日本の内情を探索させるためとか、いろいろな説があるようです。
シーボルトは数ある植物の中でもアジサイを愛したようで、彼の著書『日本植物誌(フローラ・ヤポニカ)』には、彼が日本で知り合った「オタキさん」(楠本滝・其扇)という女性の名前からつけられたといわれる「Hydrangea otaksa(ハイドランジア オタクサ)」という学名でアジサイが紹介されています。ただ、アジサイの学名はシーボルトが命名する以前に「Hydrangea macrophylla (ハイドランジア マクロフィラ)」という名前で発表されていたのでオタクサの名前は認められませんでした。
※Hydrangea(ハイドランジア)は水の器・水瓶という意味で、macrophylla(マクロフィラ)は大きな葉っぱという意味です。
来日から5年目にあたる1828年、シーボルトは当時禁止されていた伊能忠敬の日本地図縮図や日本に関する翻訳資料を国外に持ち出していたことが発覚します。いわゆる「シーボルト事件」です。長い取り調べのあと、シーボルトと関係があった人々は処罰され、シーボルトは国外追放となり、オタキさんはシーボルトとの間に生まれた娘・イネと二人で長崎で暮らすことになりました。
シーボルトが日本を去って30年後の1859年、国外追放が解かれ、再び日本の土を踏むことができました。長崎に到着したシーボルトは、なつかしい鳴滝に住み、昔の門人たちや娘・イネたちと交流しながら日本研究を続けました。また、幕府に招かれて、江戸でヨーロッパの学問を教えました。3年後に日本を去り、1866年10月18日、ドイツのミュンヘンで70歳で亡くなりました。
ちなみに、シーボルトの娘・イネも医学の道を志しました。
(参考資料「神戸市立森林植物園アジサイとシーボルト」)