明治12年(1879年)に内務省は当時長崎から感染が拡大し猛威を奮っていたコレラのまん延防止の対策として、神戸(兵庫県和田岬西北地)と横浜(神奈川県三浦郡長浦村)に消毒所を設置しました。この長浦に設置された消毒所「長浦消毒所」は、明治28年(1895年)に、日清戦争に伴う横須賀軍港拡張のため撤去されることになり、神奈川県久良岐郡金沢村大字柴(現在の横浜市金沢区長浜)に移転し、「長濱検疫所」となりました。
また、明治32年(1899年)に「海港検疫法」及び「海港検疫所官制」の施行により、長濱検疫所は、内務省直轄の「横濱海港検疫所」として常設の機関となりました。
約47,000㎡敷地に、消毒施設や伝染病院、火葬場などの建物が38棟あり、その中の「一号停留所」は、感染の恐れのある未発症の外国人を含む一等船客などを一定期間停留(滞在)させる施設で、一流ホテルの外観と内装を備え、現在は検疫資料館となっています。
それまでは、コレラ流行の都度告示を待って検疫が実施されていましたが、常設の機関となったことで、ようやく外国の干渉を受けることなく我が国独自で常時海港検疫を施行できる体制が整います。
また、海港検疫法施行前の検疫は、汽船を借り入れて長浜と夏島との中央沖合で行っていましたが、同法施行後は横浜港付近で行えるようになったため、本牧沖に碇置した検疫番船内で検疫を行い、消毒を要するときに限り長浜に回航させるようになりました。番船は、随時、汽船を借り入れて業務に当たっていました。
海港検疫所には所長1人、海港検疫官1人、海港検疫官補1人、海港検疫医官補3人、海港検疫所調剤手1人、海港検疫所書記2人の職員を配置されていました。その海港検疫医官補として明治32年(1899年)5月に採用され、5ケ月の間勤務したのが北里柴三郎の伝染病研究所の研究助手だった野口英世です。
野口英世は、折から入港した亜米利加丸(アメリカ丸)の検疫に従事して、船艙で苦しんでいた中国人船員からペスト菌を検出しました。野口の名を一躍伝染病関係の医師や海港検疫医の間に知らしめたのも長濱検疫所の細菌検査室です。
この細菌検査室は長浜野口記念公園内に移管・保存され、一般に公開されています。
さらに、明治35年(1902年)には「港務部官制」が施行され、検疫業務も神奈川県港務部の所掌するところとなります。平常業務は、桟橋際の港務部庁舎を本拠として行われ、長浜の施設は汚染船舶の措置場となりました。
時を経て、横浜検疫所は、現在、輸入食品・検疫検査センターとなっていますが、令和4年(2022年)度中にみなとみらいへの移転が決定していて、移転後の管理は、厚生労働省から財務省に切り替わることもあり、先述の「旧長濱検疫所一号停留所」の建物、収蔵資料の保管場所などの存続が危ぶまれています。現在、保存に向けて、市民団体の署名活動が続けられています。
(参考資料「厚生労働省横浜検疫所検疫史アーカイブ」「横浜金沢文化協会会報第49号」「すまい造りメール第66号」)