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ノンカテ

蜜柑

或曇った冬の日暮である。私は横須賀発上り二等客車の隅に腰を下ろして、ぼんやり発射の笛を待っていた。(中略)

するとその瞬間である。窓から半身を乗り出していた例の娘が、あの霜焼けの手をつとのばして、勢よく左右に振ったと思うと、忽ち心を躍らすばかり暖な日の色に染まっている蜜柑が凡そ五つ六つ、汽車を見送った子供たちの上へばらばらと空から降って来た。私は思わず息を呑んだ。そうして刹那に一切を了解した。小娘は、恐らくはこれから奉公先へ赴こうとしている小娘は、その懐に蔵していた幾顆の蜜柑を窓から投げて、わざわざ踏切りまで見送りに来た弟たちの労に報いたのである。(中略)

私はこの時は初めて、言いようのない疲労と倦怠とを、そうしてまた不可解な、下等な、退屈な人生を僅に忘れる事が出来たのである。

第62号 2007年5月号 – すまい造りの佐野工務店 | 横須賀市追浜の工務店 (sano-k.net)

(参考資料「蜜柑」)