新しい1万円札の肖像は、500もの企業の設立などにかかわり、「日本近代社会の創造者」と称される渋沢栄一です。今回はその跡を継いだ孫の渋沢敬三と渋沢同族株式会社を中心とする渋沢財閥について調べてみました。
渋沢敬三は、民俗学などの学問に興味がありましたが父親の廃嫡により、仕方なく19歳で跡を継ぎ経営の道に進みます。東京大学経済学部を卒業し、横浜正金銀行に入行し、渋沢家の当主としての重圧に耐えながら、研鑽を重ねて行きました。そのような環境の中で、学問を志す研究者を育てることに生き甲斐を感じるようになります。彼が学問的資質を持っていることは勿論ですが、飾り気のない人柄、人を包み込む包容力、そして、なによりも謙虚な姿勢がそのようにさせたのでしょう。
時は過ぎ、太平洋戦争に突入した直後に、東条英機首相に半ば強引に日本銀行副総裁に、その後総裁に就任させられ、金融政策の舵取りを担うようになります。しかし、戦時下では軍の政策にただ従順するだけで無制限に赤字国債を出し続けました。その後、終戦後に自らが引き起こしたインフレーションの後始末を積極的に行いました。それは、戦争に加担した自らの罪を認め、その責めを受け止めて生きていく覚悟を決めたからだと言われています。
そして、GHQが財閥(一族の独占的出資による資本を中心とした経営形態)の解体命令を出し、総資本約30億円の三井財閥、総資本約33億円の三菱財閥が次々と解体される中、総資本約1,000万円の渋沢財閥は解体を回避できたにも関わらず、その手続きを行わす、「ニコニコしながら、没落していけばいい。いざとなれば、元の百姓に戻ればいい」(ニコ没)と言い、自ら渋沢財閥を解体しました。また、終戦処理のために執行された財産税(課税価格10万円を超える財産を持つ個人に対して課税)に対しても、5,000坪の渋沢家の豪邸を惜しげもなく物納しました。「300万人もの命が失われたのだから、当たり前のことだ」と。
そして、執事が使用していた小屋に移り住み、わずかな土地に畑を作り野菜を育て暮らしたそうです。その表情には悲壮感はなく、背負っていたものを降ろしたからなのか、訪れた人たちにはむしろ晴れやかに感じられたようです。
(参考資料 NPO法人国際留学生協会「向学新聞」)