2024年7月3日に、1万円、5千円、千円の3券種が改刷されました。新紙幣発行後も現在使用されている紙幣はこれまで通り使用可能です。紙幣の交換を促すような電話やメールにご注意ください。
新しい1万円札の肖像となった渋沢栄一と旧1万円札の肖像となった福沢諭吉が初めて出会ったのは、渋沢が大蔵省に入って間もない1869年(明治2年)のことでした。外国の制度や諸事情に詳しい福沢に租税・貨幣・土地制度などを確立する計量の基準として何がふさわしいかを相談するために福沢邸を訪れました。しかし、この時のお互いの印象はあまり良くなかったようでした。渋沢は自著である「西洋事情」を通じて一方的に教え込もうとする福沢の姿勢に、一方、福沢は「論語」の考えを信条とする渋沢の古い考え方に、それぞれ嫌悪感を抱いたようでした。
しかし、そんな二人が、1894年(明治27年)の日清戦争をきっかけとして、お互いの立場を理解し信頼するようになります。清との戦争を避けることが出来なくなる中で、福沢と渋沢は「出征兵士の家族の支援、戦病死者の慰問・弔問計画」を立案し、お互いに役割を分担して実現に向けて動き始めました。福沢は自らが創刊する「時事新報」で訴え、一方、渋沢は企業に声をかけて寄付金を集めました。お互いの強み活かすことで事業の達成に努めたのでした。
その後のお互いの評価は180度変わりました。渋沢は「先生は見識が高く、何事にも屈せず恐れなかった。机上の学問ではなく、実業に活かせる学問をせよという教えを唱え、自らが民間のリーダーとなって西洋の先進的実業を手本として日本を発展させた」と、一方、福沢は「渋沢は大蔵省を辞職し、成功するかどうかわからない実業界に飛び込み、初志を貫徹して今日の地位を築いた。大変な栄誉なことである」と、お互いにそれぞれの生き方を尊敬するとともに、その努力に最大限の称賛を贈っています。
日本の近代化に大きな足跡を残した二人の活躍はプライスレスです。お金で買えない価値がある。
(参考資料「東京都北区立堀船中学校~校長室から」「国立印刷局~新しい日本銀行券特設サイト」)