太平洋戦争が終わり、追浜の旧海軍施設が解放され変化が現れた。1946年(昭和21年)戦時特設託児所が廃止され市立保育園が開設された。同年に追浜駅裏の元海軍航空技術廠技術将校の高等官宿舎跡が湘南国際病院として開院した。今も駅裏に門柱と宿舎に続いた塀が残っている。
また、旧海軍航空隊跡地に進出した富士自動車(株)は、国の経済統制政策により混乱期の1947年(昭和22年)に占領軍自動車の修理、解体、再生事業を開設した。その後、日産自動車の指定工場となり、短期間に大きな会社に拡大していった。
旧海軍飛行場や軍施設の埋立て地は、45万坪の74%(約33万坪)がどこの地方公共団体にも属さない所属未定地であったそうだ。横須賀市発行の境界問題解決への記録書「野島と夏島」には、横浜と横須賀の両市が米陸軍特需会社富士自動車に市民税をニ重課税し土地帰属の境界紛争となったとも書かれている。
元々、古くは野島周辺を武蔵国久良岐群野島浦、夏島周辺を相模国三浦郡浦之郷村と言った。1889年(明治22年)に市制・町村制が施行され、野島浦は金沢村に、浦之郷村も浦郷村となった。やがて浦郷村は田浦町に改称され、1933年(昭和8年)に横須賀市に合併された。その背景には、旧海軍施設のある田浦町の行政区域を横須賀市に統合し、埋め立てや軍道整備等の法的手続きの不便さを解消するための様である。
この行政境界紛争は、1952年(昭和27年)に暫定措置が取られたが本来の解決にならなかった。その後1959年(昭和34年)に、神奈川県知事から現状の埋立て地は地理的、経済的、水利、交通等が横須賀市と一体の様相であること、横須賀市は旧軍港市転換法による企業誘致が進めていること、駐留軍関係離職者対策の社会問題等の解決を見出すことから、斡旋案が出され協定で横須賀市の帰属となった。
当時の記録写真では、飛行場の隅から隅まで南方戦線から運ばれた軍用トラックやジープで埋まり、朝鮮戦争当時にアメリカと韓国の両国将校が工場視察している貴重な物もあり、飛行場跡とは思えない。今では歴史的な経緯も薄れ、進出した追浜工業会の各企業が横須賀市の経済を支えている。
(神奈川新聞社主催「青木塾」塾長 青木猛)