江戸時代から続く浦賀の老舗書店、金文堂信濃屋書店の七代目にあたり、郷土史家として活躍されている山本詔一氏に横須賀にゆかりのある、まだあまり知られていない偉人を取り上げていただきました。
『武士の家計簿』という本を書いて、一躍ベストセラー作家になったと言っても、現在は静岡文化芸術大学で江戸時代史を教えるれっきとした研究者である磯田道史(いそだ・みちふみ)氏が最近の書物で必ず取り上げ、高く評価している人物に中根東里(なかね・とうり)という陽明学者がいる。この中根東里が浦賀の地に眠っていることを知る人は少ない。
東里は伊豆・下田で生まれ、十三歳で仏門に入ったが、仏教の世界に飽き足らず、当時一大旋風をおこして荻生徂徠(おぎゅう・そらい)に門下になった。しかし、ここでも飽き足らなくなり、儒学の大御所・室鳩巣(むろ・きゅうそう)に師事した。ここでも満足することがなかった東里は、友人が勧めてくれた「王陽明全集」に感激し、独力でこの本を読みこなしていく。この間寝食も忘れて没頭したという。それでなくとも極貧生活をしており、そんな中で少しでも余裕ができるとまた本を買い、雨戸を閉ざして読書三昧の生活であった。
東里が学んだ陽明学は、「知行合一(ちこうごういつ)」すなわち学問と行動とは同一のものでなくてはならないという教えであった。ここから陽明学が「行動の学問」などといわれ、幕末に活躍する佐久間象山、吉田松陰、大塩平八郎などは、この学問を学んでいた。行動の学問であることから、大名家に仕官する道は閉ざされていたが、栃木県佐野の豪商に招かれて、ここで塾を開いてもらい、一人前の生活ができるようになった。
佐野時代にまさに行動の学問を実践した。人間の親として子を育ててこそ一人前と、弟の乳児を引き取り、育て、この体験から得た事柄を『新瓦(しんかわら)』という実践的な教育論に書きあげている。生涯を独身で通した東里であったが、母親は浦賀奉行所の与力・合原家に嫁いだ姉のもとに身をよせていた。その母が危篤状態になったという手紙が、東里のもとに届くと、東里は浦賀へ駆けつけ、これまでの非礼を詫びた。今までの親不孝を償うために、母が亡くなった後、片時もそばを離れぬようにと、母親の墓石の隣に自分の墓をつくり、現在も母を見守り続けている。
(横須賀開国史研究会 会長 山本詔一)