大正12(1923)年9月1日に起こった関東大震災は、横須賀の海軍施設も大きな被害を受けた。この中には、横須賀の海軍基地の中枢である鎮守府の建物もあった。海軍は新庁舎の再建をしたが、この工事を請け負ったのが市内の馬淵組であった。現在もアメリカ海軍の司令部として使用されているこの建物、大正15年3月11日に起工、10月15日に竣工している。鉄骨・鉄筋コンクリート3階建で、総建坪675坪、耐震工事を施した建物をわずか7か月で完成させた。驚異的な速さである。ここから「突貫の馬淵」の異名をとった。
馬淵組が横須賀で誕生したのは明治42(1909)年のことで、創業者は馬淵曜(まぶち・あきら)であった。事業の発展とともに馬淵自身も財力を得たが、馬淵はこの私財を社会事業や教育事業に費やした。そのきっかけは、昭和天皇の御大典記念事業として、日の出町の埋め立て地に児童公園を造る予定で、大阪、名古屋方面を視察していた途中、名古屋市の盲唖学校に立ち寄り、聴覚障害を持つ子どもたちの授業に感動した。考えてみると横須賀には聾唖(ろうあ)学校はなく、障害を持つ子どもたちに適切な教育機会がないことに気がついた。すべての人が希望していながら、誰もやろうとしない事業こそが、天が私に与えてくれた使命であると考えた。馬淵は横須賀に聾唖学校を造ることを決心した。
昭和5(1930)年、衣笠村小矢部の丘に、窓の大きい明るい近代的な学校が出来上がり、馬淵聾唖学校と称した。昭和6年、ニューヨークで世界盲人社会事業会議が開催され、この会議に日本の代表の一人として参加した馬淵は、「奇跡の人」と言われたヘレン・ケラー女史の講演を聞き、深い感銘をうけた。そのヘレン・ケラー女史が来日した昭和12年、横須賀の下士官・兵集会所(戦後はEMクラブと呼ばれた)でも講演会があり、障害を持つ人々は勇気づけられ、感動を与えた。この講演会の仕掛け人も馬淵であった。
(横須賀開国史研究会 会長 山本詔一)