横須賀製鉄所にとっての課題は水の問題であり、横須賀市上下水道局発行の『水の旅』によると、飲料水は製鉄所内の湿ヶ谷の湧水を利用し、従業員宿泊所への用水は、製鉄所近くの子之神山の湧水を利用していたが、製鉄所の一部が操業を開始して、従業員も増加することによって、作業用に利用される水も不足するので、汐入の長源寺所有の溜池やその付近一帯約3000平方メートルを1871年に買収することにより対応することとした。そして、その後走水水道が完成した後も、予備施設として重要な役割を担っていたと述べている。
一方、ヴェルニーは工場の急速に増加する水需要や、船舶給水の増加に本格的な恒久施設としての水道が必要であるとの認識から、1874年(明治7)に三浦郡内における水源調査を実施した結果、走水の伊勢町付近がかつての「大津陣屋」の米搗場として豊富な水を集めて、水車を廻していたのに着目し、ここから水道を引く計画を立て明治新政府の裁可を得て事業化することとした。
そして、工事はフランス人技術者の指揮監督の下1874年(明治7)7月走水から横須賀製鉄所まで約7キロメートルの測量が実施され、1875年(明治8)4月から10月に管路にあたる山地に4箇所のトンネル(延680メートル)が掘り抜かれた。
水道管(陶管)は内径5インチのものを1875年から1876年12月にかけて布設された。この水道は自然流下方式を採用しているが、走水から製鉄所間の高低差は10メートル足らずであることから、当時の技術水準からすると、かなり高いレベルの工事が行われたものと考えられ、また、ルートの選定に当たっても山と海が近接していた時代のことでもあり、大変な工夫がなされたものと思われる。
ここに横須賀市として最初の水道が完成し、年々施設も充実強化され現在ではその施設が国の重要文化財に指定されている。
(元横須賀市助役 井上吉隆)