徳川幕府は、1866年(慶応2)アメリカ、イギリス、フランス、オランダ、ロシア5カ国と「改税条約」を結びます。その11条には「灯台の設置」が規定されています。船舶の安全確保には必要不可欠のものであり、全国に8箇所の灯台を建設することになりました。最初に建設着手したのが観音崎灯台で、日本の洋式灯台の第一号です。幕府から横須賀製鉄所に依頼が有り、設計者はルイ・フェリックス・フロランです。フロランは1866年(慶応2)に建築課長として来日しました。日本ではヴェルニーの職務代理を務めるなど、その任務はフランス人技術者の中でも特に重要でした。フロランは横須賀市と姉妹都市のブレストの灯台局に勤務し、その後パリ中央灯台局勤務、そして灯台の建設や灯台関係の技術者の養成など灯台に関して多くの知識と経験を持っていました。
観音崎灯台は、1868年(明治元)9月に着工して12月に完成しました。そして、1869年(明治2)1月1日から点灯されました。灯台の高さは12.12メートル煉瓦造り、建物の屋上に灯塔、レンズはフランス製、光達距離17海里(31.5キロメートル)、建設に使用された煉瓦は、横須賀製鉄所で焼かれたもので64,600個が使用されました。この灯台の建設費は灯台の機械を含め9,815円90銭1厘でした。しかし、この観音崎灯台は、地震などの被害を受け改築されて現在の灯台は3代目です。その後、横須賀製鉄所ではフロランの手により品川灯台、野島崎灯台、二番台場灯台を建設しました。
この観音崎灯台が完成する以前に江戸に入る船は、何を目印にして江戸湾に入ったのでしょうか、西浦賀にある燈明堂を目指しました。初代の燈明堂1648年(慶安元)に建設されたものと言われており、光達距離は4海里(7.2キロメートル)であったそうです。初代の観音崎灯台と比べて余りにも性能に差があると思います。燈明堂は観音崎灯台の完成により不要となり老朽化し土台だけが残されていたので、1989年に復元されましたが、燈明堂の役割は果たしていません。
(元横須賀市助役 井上吉隆)