生野銀山は、兵庫県朝来市に所在していて1542年(天文11)頃から採掘が行われていました。織田信長・豊臣秀吉・徳川家康は直轄地として経営していました。そして江戸時代の銀貨は生野と石見銀山の銀が原料であったと言われています。しかし、幕末から採掘技術が劣化したことにより休山同様で、明治新政府は1868年(明治元)官営銀山として西欧技術を導入し、従来のたぬき堀から近代的な機械による採掘を導入して銀山の復活を目指しました。
この再生には、フランス人鉱山技師フランシスク・コアニエが招聘され、1868年(明治元)大阪鉱山監督局に採用され「ミカドの鉱山技師長」と呼ばれ、生野銀山の再開発を任されることとなりました。コアニエは、当時としては最先端の鉱山機械を導入することで鉱山の近代化を図ることとして、採掘用機械・鉱石処理用の溶鉱炉などの諸設備の製作・輸入を横須賀製鉄所に発注しました。そして、横須賀製鉄所に発注する機械や鉱山用の照明ランプなど自ら設計をしました。製作された鉱山機械類の10点が1869年(明治2)神戸港に向けて発送されました。その他蒸気機関や大小800種類もの器具が横須賀製鉄所で製作され、製作できないものは横須賀製鉄所を経由してフランスから輸入されました。
『横須賀海軍船廠史』の明治3年紀において「3月8日製鉄所は鉱山司に通信して生野鉱山用の諸機械悉皆其製造を了して2月中既に同地に送付したるを告げ且製造費洋貨8943ドル73セントの交付を要求せり、」との記述がなされています。
(元横須賀市助役 井上吉隆)