『横須賀造船史』慶応元年紀の9月27日の記録によりますと、横須賀製鉄所の鍬入れ式が実施されたと記されています。来年は着工から150年の記念すべき年です。
鍬入れ式の前年には、イギリス、アメリカ、オランダ、フランスの四カ国連合艦隊が、長州藩を攻撃し下関の砲台を占領をした、「下関戦争」と呼ばれる年です。また、長州藩が京都御所を砲撃した「蛤御門の変」・「池田屋事件」の発生した物情騒然とした年でもありました。そして鍬入れ式の翌年の1866年には薩長同盟が行われ倒幕運動が次第に勢いを帯び、3年後の1868年には戊辰戦争である鳥羽伏見の戦いの火蓋が切って下ろされ、倒幕運動が活発化しすざましい勢いで倒幕軍は江戸を目指しました。
その戦いに倒幕軍は錦のみ旗を掲げ、兵器については幕府軍は旧式なものを使用していたのに比して、倒幕軍は輸入した最新式のものを以て交戦するので、幕府軍はずるずると後退を余儀なくされ、倒幕軍は箱根を越え江戸に近づきつつありました。そうした中でも横須賀製鉄所建設工事は一日も休むことなく続けられました。
『横須賀造船史』の明治元年紀によれば、3月5日には幕府製鉄所掛勘定奉行と製鉄所奉行は、ロセス公使が兵庫に出張中なのでヴェルニーに対して、倒幕軍が製鉄所についてどういう処置をとるかわからないので、しばらく工事を中止してフランス人は全て横浜に避難したらどうかと書面を送ったところ、ヴェルニーはロセス公使に連絡をして、ロセス公使から「製鉄所の設立は仏国政府が担保するものであり、外国の艦船の修理工事も同様であって、中止すべきものではないので、フランス人は全員が残り、日本の職工は一時半数に減少して、物情が鎭定するのを待つのがよかろう。そして、仏国軍艦「カンシャンツ号」を横須賀湾に置いて万一の場合フランス人を保護することとする」として、固い意志のまま工事は継続されました。
4月に入ると江戸城は明治新政府のものとなり、旧幕府の製鉄所奉行からヴェルニーに対して、横須賀製鉄所を新政府軍に引き渡すことなったと通告がなされ大きなトラブルもなく整然と引継ぎが実施され、引き続きヴェルニーの手により横須賀製鉄所の建設工事が継続されました。
(元横須賀市助役 井上吉隆)