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横須賀製鉄所物語

横須賀製鉄所の技術伝承

横須賀製鉄所物語<23>

横須賀製鉄所(後の造船所)は、横須賀においての造船・艦船の修理だけではなく、日本産業の近代化のための産業機械の生産にも貢献し、日本の産業革命をここから発信しました。そして、横須賀製鉄所の黌舎による教育を受けた技術者や、その指導育成を受けた技術者が活動の場を求めて横須賀から巣立ちました。そうした中の一人に「杉浦栄次郎」という技術者がいます。

住友重機械工業株式会社浦賀造船所が編集発行した『浦賀・追浜百年の航跡』によると、浦賀船渠の創業は、浦賀奉行所与力でペリー来航の際に、浦賀奉行所副奉行と名乗り黒船に乗船し初の外交交渉をし、久里浜でアメリカ大統領の国書を受領することとした中島三郎助が、その後五稜郭の戦いで生涯を閉じ、ともに五稜郭で戦った後に農商務大臣になった榎本武揚等により、中島三郎助のためドックの建設が計画され、ドイツ人技師ボーケルにより工事が着手されましたが、工事は遅々として進展せず、最終的には横須賀製鉄所の元設計技師杉浦栄次郎と工事担当者の緒方菊三郎の献身的な活動により、明治32年11月に船渠工事が完了し創業したと記されています。

この「杉浦栄次郎」については、横須賀市教育委員会発行の『米海軍横須賀基地内洋風建造物調査報告書』によると、故石井穎一郎氏(横須賀市在住)が横須賀市に寄贈した『横須賀、呉、横浜船渠古図』との資料は、石井氏の伯父にあたる杉浦栄次郎の遺品であるとし、杉浦は当時横須賀製鉄所の工事請負人の中村甚左衛門の番頭であると記載されています。こうしたことからも横須賀製鉄所建設の技術者の技術伝承が、日本で最古の煉瓦積みドライドックである浦賀ドックの完成をもたらしたものであります。こうした由緒あるドックは歴史的にも評価が高いものなので、後世にしっかりと保存してゆくべきものと考えます。

(元横須賀市助役 井上吉隆)