江戸・横浜からのアクセスは、陸路では「浦賀道」や「鎌倉道」に依存していましたが、特に江戸へのルートとしては山坂の多い難所であったため、水上交通が重要な交通手段になっていました。『新横須賀市史』通史近代史には「横須賀村に大津村、そして須崎村(横浜市金沢区)の野島浦との間で渡船業務を行っており、野島浦はこのほかにも、遠くは下総国や安房国と結ぶルートを形成していた」と記されています。
「江戸時代には水路が物流のみならず交通においても現在とは比較にならないほど大きな役割を担っていた。当時天候が良ければ陸路より水路の方が一般に速く、(略)そうした水路を進むための渡船航路が各地に存在していた。三浦半島では東京湾側で北部に出がちの地形が続くために海路交通が発達し、浦賀道のうち町屋村に近い野島浦(現横浜市金沢区)からは横須賀村や大津村に至る渡船の航路が存在していた」と記されています。
そして、横須賀鎮守府編『横須賀造船史』慶応2年紀によりますと、ヴェルニーは横須賀製鉄所のために船を購入し、「横須賀横浜間通航汽船規則」を制定して、毎週日曜・火曜・金曜日の3日間運行することにしました。そして、明治元年8月には製鉄所関係者以外の一般人にも利用できるように「横須賀丸便船人心得規則」を定めました。また、明治12年紀には「5月3日従来本所ニ於テ横須賀横濱間往復ノ通船取扱ヒ来リシカ今般藤倉五郎兵衛同所通間船開業ニ付本所ノ通船ヲ廃止セリ」とあり、民営化されました。
江戸に向けての船便については、『横須賀造船史』明治元年紀に「三月製鉄所奉行ハ首長うえるにーヨリ昨年中起工シタル小汽船落成ノ報告ヲ受ケテ舊幕府ニ經伺シ此新船ヲ以テ毎土曜日江戸ニ渡航シ毎月曜日横須賀ニ歸航シ以テ兩地直航ノ便ヲ開カントス乃チ同月二十八日之ヲ首長ニ傳達シ来週ノ土曜日ヨリ実行セシム」とあり、江戸への定期便を製鉄所(造船所)として開設しました。
このように当時の横須賀は、陸の孤島で海上交通に依存せざるを得ない状況でした。現在のような首都圏へのアクセスに改善されたのは、今から約130年ぐらい前のことです。
(元横須賀市助役 井上吉隆)