山口辰弥は、1850年(安政3年)幕臣の長男として生まれ、1870年(明治3年)に横須賀製鉄所黌舎に入学しました。
ここでの教育は、寄宿舎生活でフランス人によるフランス語教育で、自然科学、数学、造船学など幅広い高度な教育が行われ、14歳の少年にしては大変な苦労を重ねたものと考えられます。
そして、1876年(明治5年)に黌舎第1期生として佐波一郎などと卒業します。そして、1876年(明治9年)11月に本格的に造船学を学ぶ為にフランス留学を命じられます。留学先はフランスのシェルブールに所在するフランス海軍造船学校で、3カ年間造船・造機について学ぶことになりました。
山口辰弥はフランス留学をして正規に造船教育を受けた最初の人物になり、ここでの修学によりフランスの造船技師の資格を取得して、1880年(明治13年)4月に帰国します。
帰国後は直ちに黌舎の教授に就任し、フランスで修得した造船工学の教育を行います。
明治新政府は、山口辰弥の実力を評価して1882年(明治15年)9月に海軍省主船局に勤務を命じます。そして、海軍の艦船建造計画に参加することになり、海軍の中枢の職員として活躍しました。
1885年(明治18年)には、神戸に小野浜造船所が開設され造船課長に就任します。ここでは造船技術のリーダーとして活躍し、翌年にはヨーロッパへ出張を命じられ外国の船舶建造技術を視察します。そして、1888年(明治21年)には小野浜造船所長に昇任し、1893年(明治26年)5月には横須賀製鉄所から名称を変更された横須賀鎮守府に勤務することになりました。
そして、1900年(明治33年)5月には造船技術者としては最高位である造船総監に就任しますが、11月にはその職を退任し海軍造船界から身を引くことになりました。
しかし、造船技術の実力を身に着けた山口辰弥を造船界が放置しておくことはありませんでした。1904年(明治37年)に浦賀船渠株式会社に請われ入社し、技術面での指導を果たし業績も向上し工場長としての能力を遺憾なく発揮し、その後取締役として経営・技術面にも参画し、浦賀船渠株式会社の発展に大きく寄与しました。
これも海軍時代に長年培った実力が花開いたもので、造船技術者のエリート中のエリートが黌舎から育成され巣立ったからなのです。
(元横須賀市助役 井上吉隆)