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横須賀製鉄所物語

なぜ建設されたか

横須賀製鉄所物語<48>

なぜ、横須賀製鉄所は建設されたのでしょうか。それは、当時の日本を取り巻く世界情勢が製鉄所への道を切り拓いたものと思われます。
1853年(嘉永6年)ペリー来航は、世情を震撼させました。徳川幕府は長崎を通して米国艦隊の来航については情報を入手していましたが、力により開港を求められ、江戸湾の中では今まで経験したことのない、大砲の力を思い知らされました。
幕府は先進諸国の海軍力に目を見張り、我が国の海防について改めて考える必要に迫られ、大型船建造禁止令を解除するとともに幕府自らも大型船の建造に着手することにしました。
しかし、幕府内部には近代的な海軍創設において軍艦を自ら建造するには500年を要するので、まず海軍軍人の育成からすべきとするいわゆる買船派と、国を守るための艦船は自らの手で建造すべきとする造船派に意見が分かれていました。
一方、各藩においては大型船建造禁止令の解除により、2015年(平成27年)9月、世界遺産に登録された萩・三重津にドックが建設され大型船の建造を計画し、オランダの造船書などを参考に取り組みましたが、実用化された例は見当たりません。各藩ともに大変な苦労の連続でしたが報いられることがありませんでした。なかでも鍋島藩は、機械類を購入したものの『横須賀造船史』元治元年紀によれば「11月是ヨリ先キ佐嘉藩主鍋島齋正ハ蒸気工作機械ヲ和蘭ヨリ購入シ將ニ工場ヲ封内ニ起サントス然ルニ經費巨萬ヲ要スルト主任其人ナキトノ故ヲ以テ竟ニ之ヲ幕府ニ獻ズ(略)」と記されています。その機械類は徳川幕府に寄付されました。後日幕府は横須賀製鉄所建設に当たり横浜に小型の造船所を建設し、その施設に寄付を受けた機械類を設置し、横須賀製鉄所建設の準備段階として人材育成の研修などに充てられました。
そして、また、萩・鹿児島・韮山には反射炉が建設され、西洋式の近代的な大砲の製造や銑鉄製造を目指しましたが、何れの反射炉も実用化されないまま、遺産として残りました。

(元横須賀市助役 井上吉隆)