徳川幕府は、大型船の建造を禁止していましたが、ペリー来航により日本の海防について危機感を持ち、大型船の建造禁止を解除することにしました。そして、徳川幕府においても石川島造船所で大型船の建造に着手しました。そして、幕府も各藩と同様にオランダの造船に関する書籍の絵画をもとに設計し建造しますが、外見はともかく内部構造は和船そのものと言っても過言ではなく、外洋で利用できるものではありませんでした。そこで幕府は長崎の海軍伝習所のオランダ教官から評価を得ていた肥田浜五郎以下3名を1864年(元治元年)オランダに派遣し、大型船建造技術の伝習と大型船建造のための機械類の購入を命じます。しかし、その事業が進行中に幕府は小栗上野介の上申により、フランスの協力を得て横須賀に製鉄所を建設することにしました。
この小栗上野介の製鉄所建設の上申について、宮永孝著『万延元年の遣米使節団』(講談社文庫)には、「観察小栗豊後守はアメリカ滞在中海軍造船所を視察し、工場の規模や各種の機械の性能の優秀性に目をみはったことと思われる。(略)折から幕府の財政は窮乏し、その権威はしだいに凋落の一途をたどっていたが、小栗は造船所設立こそ国家の急務であると痛感した。彼は当時、勘定奉行と軍艦奉行の職掌を兼ねており、異論を排して計画に邁進し(略)小栗は内外危局の折に幕府の要職についたが横須賀製鉄所(横須賀海軍船廠)の創設が実現したのは、ひとえに国家の興隆と民族の安寧を第一に考えていた小栗の英断から出たことで、その裏にはアメリカで実見した造船・製鉄・船渠についての感銘と知識が深く心に刻まれ、船廠創設を立案するとき、彼の信念と体験が小栗自身と日本を導いていったに違いないと思われる」と記されています。
この幕府の決定により、肥田浜五郎はオランダでの事業の中止を申し渡され、直ちに帰国するよう命令を受けますが、時をおかずに幕府からフランスに派遣されている柴田日向守に協力するよう変更の命令を受けます。そして、オランダで購入した機械類は柴田日向守を通してヴェルニーへと引き継がれます。その中には肥田浜五郎がオランダで購入したスチームハンマー6基のうち、ヴェルニー記念館に展示されている3トンと0.5トンの2基が現存しています。製作したオランダでもこの時代の産業機械は現存せず、大変貴重な産業遺産として注目を集めています。
(元横須賀市助役 井上吉隆)