ヴェルニーの解任・帰国については、田中宏巳『横須賀鎮守府』によると、ヴェルニー解任の主導的な立場にあった海軍大丞赤松則良や肥田浜五郎は、それぞれが自分の能力を越えた計画を立案し、それが満足に実行できずヴェルニーの手を借りる羽目に陥り、ヴェルニー解任には「経験不足と体面から、つい背伸びをしたがる日本側の計画を、ヴェルニーが現実的・合理的な計画でつぶしてきたことが何度かあり、ヴェルニーに対して感情的な怨みを抱く日本人関係者は少なくなかったといわれる」と記されているように、ヴェルニーの解任理由を赤松海軍大丞や肥田浜五郎が、明治新政府へのフランス技術者不要論からの提案のみと考えるのは、早計ではないかと思います。
そして、11月15日にフランス公使に対し明治新政府はヴェルニーの実質的な解雇の申し入れをしました。その申し入れに対してヴェルニーは『横須賀海軍船廠史』明治8年紀には「12月31日ウエルニーハ佛國公使サンカンタン氏ノ諭告ニ應ジテ我政府ノ命令ヲ領シ本所首長ノ解任ヲ承諾シ本所顧問ノ職ニ就キ従来ウエルニーノ擔當シタル業務ハ自分總テ本所長官ニ於テ取扱フコト爲セリ」と記されてあり、ヴェルニーの権限は全て明治新政府の海軍省に移譲されました。
明治新政府では、ヴェルニーを解雇したもののそのままにすることは出来ず、『横須賀海軍船廠史』明治8年紀によれば明治8年12月30日「三條太政大臣ハ頃日海軍大輔川村純義ヨリ稟請シタル本所首長ウエルニー、醫師サバチェーノ解雇前ニ謁見勅語及勲章賜與ノ件ヲ上奏シテ勅語ヲ得タルニヨリ海軍省ニ移命シテ此日ニ氏ヲ宮内庁ニ出頭セシム(以下略)」と明治天皇への拝謁と勅語を賜ることになり、合わせて勲章も授与されることとなりました。そして、同年紀には「ウエルニーニ賜ハリシ勅語(我邦造船所ヲ創設セシ以來十一ヵ年ノ久シキ汝官トシテ其職ヲ奉シ能ク其力ヲ効シ諸場ノ建築及我新造艦船ヨリ内外修理ノ艦船其他ノ製造事業ニ至ル迄一々之ヲ檐當シ遂ニ今日ノ成績ヲ見ル是レ實ニ汝ノ功勞朕深ク之ヲ嘉賞ス且汝カ歸路恙ナキト將來ノ幸福トヲ望ム)」と記されています。
以上のように、当時の明治新政府は、ヴェルニーに対して解雇を突き付けると共に、その処置とは正反対に天皇への拝謁と送別の宴を実施したのです。そして、1876年(明治9年)3月12日にヴェルニーはフランスに帰国しました。横須賀造船所は、明治新政府の海軍省が思い描いていた道筋を辿り、日本人の手による造船所運営が行われることとなりました。
(元横須賀市助役 井上吉隆)