サヴァティエに対する明治新政府の解雇については、ヴェルニーによる医師常駐の必要性の答弁書により解雇を免れました。しかし、その後明治新政府に対して、肥田浜五郎から横須賀製鉄所運営についての改革案が提案されます。『横須賀海軍船廠史』明治8年紀「5月22日肥田主船頭ハ本所事務改革草案數條ヲ川村海軍大輔ニ提出シテ其裁可ヲ得タリ本案ノ大要左ノ如シ」として、全文8か条からなるもので、艦船の建造・修理については首長(ヴェルニー)が発注者の要請を受け実施していたものを、海軍省の許可を得て実施することとしました。その他首長の権限であったものを海軍省に移し、横須賀製鉄所の運営は全て海軍省に変更され日本人により実施されることとなりました。
そして、更に『横須賀海軍船廠史』明治8年紀「11月15日本所創業以來既ニ十餘ノ星霜ヲ經テ百事殆ト整頓シタルヲ以テ海軍省ハ向後外國人ヲ本所首長ニ置クヲ不必要ト認メ外務卿寺島宗則ヲ介シ佛國公使サンカンタンニ本所雇佛人ウエルニー等ノ解雇ヲ承諾セシコトヲ要求セリ」と記され、ヴェルニー、サヴァティエは明治8年末に解雇されることになりました。
そこで、地元住民がサヴァティエによりもたらされた医療についての感謝について西堀明『千葉商大紀要』第24巻第3号において「横須賀製鉄所医師ポール・アメデ・リュドヴィク・サヴァチェ 日本におけるフランス医学の先駆者」によると明治9年1月15日付で神奈川県第15大区区長小川茂周、副区長藤波保教他からサヴァティエの医療行為に対する感謝状が贈られたとあります。更に「横須賀に大病院を建てる問題は決定しております。建設地を決めるためと病院建設のために必要な諸々のアドヴァイスを受けるために私の戻るのを彼らは待っております」と記されています。明治新政府は、独自に病院建設について検討していたものと考えられ、また地元にもそうした情報が流れていたのでしょうか。
そして、帰国に当たってヴェルニーと一緒に明治新政府による、延遼館においての送別の宴に招かれると共に、叙勲も受けることになりました。
(注)「延遼館」明治二年浜離宮恩賜公園内に迎賓館として整備されたもの。
(元横須賀市助役 井上吉隆)